バグラダス川の戦い (紀元前240年)

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バグラダス川の戦い (紀元前240年)
傭兵戦争

バグラダス川(現代のメジェルダ川)流域の地図
紀元前240年
場所バグラダス川
結果 カルタゴ軍の勝利
衝突した勢力
カルタゴ 反乱軍
指揮官
ハミルカル・バルカ スペンディウス英語版
戦力
歩兵:8,000人
騎兵:2,000人
戦象:70頭
20,000人から25,000人
被害者数
不明 戦死者:6,000人
捕虜:2,000人

バグラダス川の戦い(バグラダスがわのたたかい、: Battle of the Bagradas River)は、古代カルタゴの内乱である傭兵戦争中の紀元前240年に現代のチュニジア北東部でハミルカル・バルカが率いるカルタゴ軍とスペンディウス英語版が率いるカルタゴに対する反乱軍の間で行われた戦闘である。

カルタゴは第一次ポエニ戦争終結後の傭兵に対する報酬の支払いをめぐる対立を原因として始まった傭兵戦争において、反乱を起こした傭兵やカルタゴに対して反抗的なアフリカの諸都市との戦いを続けていた。反乱軍がカルタゴの北方に位置するウティカとヒッポ(現代のビゼルト)を封鎖したために大ハンノに率いられたカルタゴ軍が紀元前240年の初頭にウティカを救援英語版しようとしたものの、この軍事作戦は失敗に終わった。同年にカルタゴで新しい軍隊が編成され、第一次ポエニ戦争の最後の6年間にシチリアでカルタゴ軍を率いていたハミルカル・バルカの指揮下に置かれた。

ハミルカルに率いられた新しいカルタゴ軍は反乱軍に察知されることなくバグラダス川(現代のメジェルダ川)の河口から対岸へ渡ることに成功した。これに対して反乱軍を率いるスペンディウス英語版はウティカを包囲していた部隊とバグラダス川の下流に架かる唯一の橋を守っていた部隊の大半を率いてカルタゴ軍に向かい進軍した。ハミルカルは反乱軍が自軍の視界に入ると退却を装うように命じた。反乱軍はカルタゴ軍を追跡したものの、経験の浅い兵士が多かったために追跡中に軍の隊形が乱れた。カルタゴ軍は反乱軍が接近すると一転して向きを変えて反乱軍を攻撃した。完全に隊形が崩れていた反乱軍はパニックに陥り、総崩れとなって敗走した。カルタゴ軍は反乱軍を追撃して多くの兵士を殺害するか捕虜にした。

この勝利によってハミルカルは自由に作戦行動を展開できるようになり、戦況の主導権を握った。そして反乱軍に味方した都市に対し外交努力と実力行使を交えることでこれらの都市のカルタゴへの忠誠を取り戻した。その後、ハミルカルとスペンディウスは現代のチュニジア北西部の山岳地帯で再び戦った英語版が、ハミルカルは再度勝利を収めた。傭兵戦争はさらに2年にわたって激しい戦いが続き、最終的にレプティス・パルウァの戦い英語版でカルタゴ軍が反乱軍の鎮圧に成功した。

背景[編集]

紀元前3世紀に地中海西部の二大勢力であったカルタゴ共和制ローマの間で起こった第一次ポエニ戦争は紀元前264年から紀元前241年までの23年間にわたり続いた。双方の勢力は主に地中海シチリア島とその周辺海域、そして北アフリカで覇権を争った[1]。シチリアでカルタゴとローマの戦争が継続している間、カルタゴの将軍の大ハンノが一連の軍事作戦を指揮し、アフリカにおけるカルタゴの支配地を大きく拡大させた。大ハンノはカルタゴの南西300キロメートルに位置するテウェステ英語版(現代のアルジェリアテベッサ)まで支配地域を広げ[2][3]、自らの軍事作戦とローマとの戦争のために新しく征服した土地から厳しく税を取り立てた[3]。あらゆる農業生産物の半分が戦時税として徴収され、すべての町や都市が納めるべき税金は2倍にされた。これらの強制的な税の取り立ては厳しく実行され、多くの地域に極端な窮状をもたらした[4][5]

第一次ポエニ戦争はカルタゴとローマの双方が莫大な物的資源と人的資源を喪失した末にカルタゴの敗北に終わった[6][7]。カルタゴの元老院はシチリアの軍司令官のハミルカル・バルカに全権を委任して講和条約の交渉を命じた。降伏の必要はないと確信していたハミルカルは憤然としてシチリアを去り、交渉を自身の副官のギスコ英語版に委ねた[6][7][8]。そして両者の間で講和条約英語版が結ばれ、第一次ポエニ戦争は終結した[9]

反乱の勃発[編集]

カルタゴの位置(地中海中部)

戦争終結後のシチリアに存在していた20,000人のカルタゴ軍の撤退はギスコの手に委ねられた。ギスコは軍隊を出身地ごとの小さな部隊に分け、これらの部隊を一つずつカルタゴへ送り返した。そして兵士たちが支払われるべき数年分の報酬を速やかに受け取り、すぐに帰路につくと見込んでいた[10]。しかし、カルタゴ政府は報酬を支払わずに全ての部隊が到着するまで待ち、交渉によってより低額での報酬で解決を目指すことにした。そして帰還した部隊をカルタゴから180キロメートル離れたシッカ・ウェネリア(現代のケフ)へ移動させた[11]

長期に及んだ軍隊の規律から解放され、するべきことがなくなった兵士たちは不満を漏らし、全額に満たない金額で支払いを済まそうとするカルタゴ人のあらゆる試みを拒否した。カルタゴ側の交渉人による報酬の値下げの試みに失望した20,000人に及ぶ全てのシチリアからの帰還兵はカルタゴから16キロメートル離れたチュニスに進軍した。パニックに陥ったカルタゴの元老院は満額での支払いに同意した。しかし、反乱を起こした軍の一団はさらなる要求を突きつけてきた。軍隊の間で評判の良かったギスコは紀元前241年の後半にシチリアから呼び戻され、支払うべき報酬の大部分をまかなえるだけの資金を持って相手側の陣営へ派遣された。ギスコは残金については調達でき次第支払うと約束して報酬の支払いを始めたが、この時に軍内の統制が崩れた。一部の兵士たちがカルタゴとの取引は受け入れられないと主張して暴動を起こし、カルタゴに忠実な兵士たちが投石によって殺害された。さらにギスコとその部下は捕虜となり、ギスコが持ち運んできた資金は差し押さえられた[12][13][14]

反乱軍はローマの逃亡奴隷であり、もし再び捕らえられれば拷問による死に直面するスペンディウス英語版とカルタゴのアフリカの領内における増税に対する大ハンノの態度に不満を抱いていたベルベル人マトス英語版を反乱軍の司令官であると宣言した[15]。カルタゴの領土の中核地帯に豊富な軍務経験を持つ反カルタゴ軍が結成されたという情報は瞬く間に広まり、多くの都市や町が同様に反乱を起こした。そして食糧や資金とともに援軍が押し寄せた[16]。歴史家のポリュビオスによれば、最終的に70,000人が兵士として新たに採用されたが、その多くはカルタゴの報復攻撃から地元の町を守るために足止めを強いられたとみられている[14][17]。結局、報酬に関する争議は本格的な反乱へ発展することになった。その後3年間続いたこの戦争は傭兵戦争の名で知られ、国家としてのカルタゴの存在を脅かした[18][19]

大ハンノの軍事行動[編集]

ウティカの戦いにおける軍事行動を示した地図

大ハンノはカルタゴのアフリカ人部隊の司令官として戦地に赴いた[20]。大ハンノの部隊のほとんどのアフリカ人はカルタゴに対する忠誠を維持しており、対立する同胞のアフリカ人の行動にも慣れていた。一方でアフリカ人以外で構成された大ハンノの部隊はシチリアから追われた後もカルタゴに駐屯し続け、同様に忠誠を保っていた。シチリアに残っていた僅かな部隊はそれまでの報酬を全て支払われて大ハンノとともに再配置され、新たな部隊を雇うための資金も調達された。そして人数は不明なもののカルタゴの市民も大ハンノの部隊に編入された[21]。この軍隊が編成される頃には反乱軍はすでにウティカとヒッポ(現代のビゼルト)を封鎖していた[22]

大ハンノは紀元前240年の初頭にウティカを救援するために軍隊を率いて出発した[23]。また、この軍隊は100頭の戦象攻城兵器を伴っていた[24][注 1]。カルタゴ軍はウティカの戦い英語版で反乱軍の陣地を急襲し、戦象が都市を包囲する反乱軍の部隊を一掃した。そして敵の陣地を占領すると大ハンノは意気揚々と都市に入った。しかしながら、シチリアの戦場で鍛えられていた熟練兵たちは近隣の丘に再集結し、追跡されることなくウティカへ引き返してきた。ヌミディアの諸都市の市民軍に対する戦い方に慣れていたカルタゴ軍は、まだ勝利を祝っている最中に反乱軍による反撃を受けた。カルタゴ軍はともに持ち運んでいた物資や攻城兵器を失い、多大な犠牲者を出しながら逃亡した。同じ年の残りの期間、大ハンノは反乱軍との小競り合いに終始し、再三にわたって会戦に持ち込む機会や敵を不利な状況に追い込む機会を逃した。軍事史家のナイジェル・バッグナル英語版は、大ハンノの「野戦軍の指揮官としての能力不足」について言及している[5][25]。スペンディウスが指揮を執る反乱軍はウティカに対する包囲軍を15,000人に増強し、同様にチュニスに存在するカルタゴの要塞からカルタゴへ向かう陸路の移動手段を制限しつづけた。さらにバグラダス川(現代のメジェルダ川)の下流に架かる唯一の橋のある場所に要塞化された陣地を築き、そこに10,000人の部隊を配置した[26]

戦闘[編集]

戦いの序章[編集]

カルタゴ軍の兵士と戦象再現(2012年)

紀元前240年のある時期にカルタゴはおよそ10,000人の新たな軍隊を編成した。この軍隊には反乱軍の脱走兵、新しく雇われた傭兵、市民兵、2,000人の騎兵、そして70頭の戦象が含まれていた。また、軍隊は第一次ポエニ戦争の最後の6年間にシチリアでカルタゴ軍を率いていたハミルカルの指揮下に置かれた[25]。しかし、この軍隊の規模は強力な反乱軍に対して攻撃を仕掛けるには危険なほど小規模であり、とりわけ直接的な攻撃を実行するのは危険であった。カルタゴ軍が自由に作戦行動を起こせるようにするためにはバグラダス川の対岸の地点を押さえる必要があったが、対岸地点を守り、数で勝っている反乱軍に対して渡河を強行するだけの戦力を欠いていた[27]

バグラダス川の河口には河口を横切る水面下の砂州があった[注 2]。通常ではこの砂州を歩いて渡るにはかなりの水深があるものの、ハミルカルは東から強い風が吹くと砂州を渡れるほどバグラダス川の流れが十分に押し止められることを知っていた。一方で反乱軍側はこのことを知らなかったとみられている[27]。強い東風が吹く中、ハミルカルは夜間にバグラダス川の河口に向けてカルタゴから極秘に軍隊を地峡の北側に沿って進軍させた。そしてカルタゴから16キロメートルの距離を移動した軍隊は反乱軍に気付かれることなく夜明けにバグラダス川の砂州を渡り、アフリカの田園地帯で自由に作戦行動を起こせるようになった[29]

軍隊の構成[編集]

カルタゴの軍隊はほぼ常に外国人で構成されており、カルタゴの市民はカルタゴに対する直接的な脅威がある場合にのみ軍隊に加わった。ローマ人による史料はこれらの外国人兵士を軽蔑を込めて「傭兵」と呼んでいるが、現代の西洋古典学者エイドリアン・ゴールズワーシーは、このような見方を「甚だしく単純化し過ぎ」であると述べている。実際にはカルタゴの外国人兵士たちは多様な取り決めの下で軍務に就いていた。例えば同盟関係にある都市や王国の正規軍が公的な協定の一環としてカルタゴに派遣されている場合もあった[30]。また、これらの外国人の大半は北アフリカ出身者であった[18]

リビア人は大きな盾、兜、短剣、そして長槍を装備した密集隊形の歩兵と槍を装備した騎兵の突撃部隊[注 3]重装騎兵としても知られている)を供給し、どちらの部隊も規律と耐久力に優れていることで知られていた。ヌミディア人は接近戦を回避し遠距離から槍を投げる軽装騎兵投槍を装備した軽装歩兵からなる散兵を供給した[32][33]。リビア人の歩兵とカルタゴの市民兵はファランクスとして知られる密集陣形で戦っていた[33]ヒスパニアガリアからは経験豊富な歩兵が供給されていた。これらの歩兵部隊は鎧を装着していなかったが、猛烈な突撃を見せていた一方で戦闘が長引くと離脱するという評判があった[32]バレアレス諸島からは投石を専門とする兵士が採用された[32][34]。また、必要な兵員を埋め合わせるためにシチリアやイタリア出身者も戦時中に合流していた[20]。当時の北アフリカにはアフリカ原産のマルミミゾウが生息しており、カルタゴ人は頻繁に戦象として利用していた[35][36][注 4]。ただし、これらの戦象が戦闘要員を乗せた塔を移動させるために使われていたかどうかは史料上明らかではない[38]

反乱軍はカルタゴ軍と似た構成と装備を持ち、より新しい時期に軍隊に加わったシチリアでの豊富な経験を持つ多くの軍人が含まれていたとみられている。反乱軍のほとんどは歩兵で構成され、騎兵についてはカルタゴ軍よりも小規模であり兵士の質も悪かった。さらに反乱軍は戦象を全く保有していなかった[39]

交戦[編集]

戦闘時の両軍の軍事行動を示した地図

カルタゴ軍が行軍後に軍隊を編成し、そして恐らくは食事と休息をとっている間に河口から8キロメートル[29]に位置する橋と15キロメートル[40]に位置するウティカに展開していた反乱軍がカルタゴ軍と対決するために急遽移動を始めた。スペンディウスはカルタゴ軍に向けてウティカにいる反乱軍の大半を南へ派遣し、橋を守っていた兵士をほぼ全員移動させた。この部隊の移動によって20,000人以上(恐らくは25,000人)[41]に及ぶ反乱軍が10,000人規模のカルタゴ軍のいる場所へ向かった。ハミルカルはバグラダス川の河岸に沿って橋の方向へ軍を進めたが、これは恐らくウティカからの援軍で敵軍が強化されてしまう前に橋で反乱軍を攻撃し、徹底した打撃を与えることを意図していた。カルタゴ軍はそれぞれ自軍とほぼ同じ戦力に匹敵する西と北から迫る反乱軍に直面した。カルタゴ軍の隊列は前方に70頭の戦象、その後ろには重装騎兵と軽装歩兵、さらにその後方には重装歩兵がいくつかの並列状の隊列を組んでおり、それぞれの部隊の間には間隔が取られていた。しかし、騎兵の偵察部隊もしくは先導部隊が存在していたかどうかは史料に言及が見られない[42]

カルタゴ軍の多くは新たに補充された兵士によって構成されていたが、ハミルカルはカルタゴを出発する前に何度かの演習の実施と戦場での基本的な作戦行動を教え込むことができた[43]。二つの反乱軍の部隊がはっきりと視界に入るとカルタゴ軍は反対方向に向きを変えて撤退していった。そして整然と行進を続け、カルタゴで訓練していた事前の作戦行動の計画を実行に移した。反乱軍の兵士の多くは経験が浅く、カルタゴ軍が逃げ出したものと思い込んだ。そして互いに励まし合いながら追跡するために駆け出した[44]。スペンディウスは二つの部隊と合同して数で劣るカルタゴ軍を河岸へ追い込み、一方の部隊で敵軍の動きを抑えつつもう一方の部隊で側面から包囲しようとしていた。しかし、自身の部隊が退却するカルタゴ軍に向かって急速に動き出したことでこれらの部隊を制御することができなかったか、あるいは自身もカルタゴ軍が退却していると信じて自軍に追跡を促した[45]

ハミルカルは反乱軍がおよそ500メートル離れたところで再び重装歩兵に向きを反転させて戦闘態勢に入るように命じた。そして騎兵とその後に続く戦象が重装歩兵の部隊に近づくと、同様に反乱軍と対峙するためにそれぞれ順番に向きを反転するように命じた[46]。現代の歴史家であるデクスター・ホヨスは、「このような機動作戦は隊列を組んで行進するという絶対的な基本を一度習得すればどのような軍隊でも学ぶことが可能な非常に単純なものだった」と強調している[46]。反乱軍の先頭集団は突如として動揺した敵を追っているのではなく戦象と騎兵の隊列を組んだ集団とその背後を進む7,000人を超える重装歩兵に至近距離で直面していることに気づいた。この時点までに反乱軍は完全に隊形を崩し、部隊のまとまりさえも失っていた。先頭にいた反乱軍の部隊はパニックに陥り総崩れとなった。少なくとも敗走した集団の一部はまだカルタゴ軍に向かって突進していた別の反乱軍の隊列に妨害され、第二集団の兵士が先頭集団の兵士の逃亡を阻止しようとしたことで殴り合いさえ起こった。そしてこの混乱の中にカルタゴ軍の戦象と騎兵が突撃してきた。ポリュビオスは、「騎兵と戦象が至近距離から攻撃してきたため、多くの者が踏みつぶされた」と記している[46][47]

デクスター・ホヨスは、カルタゴの戦象と騎兵が敗走する多数の反乱軍の兵士の行く手を遮り、バグラダス川に追い詰め、整然と進軍するカルタゴ軍の重装歩兵が追い詰められた兵士を容易に殺害するか捕虜にしたと推測している。また、カルタゴ軍の軽装歩兵は戦場一帯に散らばり、負傷した兵士や敗残兵を掃討したであろうと述べている[46]。生き残った反乱軍の兵士たちは元の場所へ逃げ戻った。ハミルカルは直ちに自軍の歩兵をバグラダス川に架かる橋を守る要塞化された陣地に向けて進軍させた。橋の陣地でどうにか一休止を入れた反乱軍は戦闘に関与しなかった小規模な橋の守備隊を引き連れてチュニスに向かい逃走を続けた。スペンディウスはこの逃走する部隊とともに行動していたと思われるが、依然として部隊を全く制御できない状態だった[41][48]。反乱軍の損失は死者6,000人と捕虜2,000人に及んだ[41]。この戦闘の結果、ハミルカルは軍事戦略の主導権と自身が強く望んでいた作戦行動の自由を手に入れた[49]

戦闘後の経過[編集]

大ハンノが北のヒッポの近郊でマトスに対する作戦を練っている間にハミルカルは反乱軍の手に渡っていたいくつかの町や都市と対峙し、さまざまな外交努力と実力行使を組み合わせることでこれらの都市のカルタゴに対する忠誠を取り戻した。ハミルカルは規模で勝る反乱軍によって後を追われていたが、反乱軍はハミルカルの騎兵隊と戦象を恐れて荒れた土地に留まり、ハミルカルの偵察部隊や食糧を探し求める部隊を襲撃した[50][51]。その後、ハミルカルはウティカの南西の山中に軍隊を移動させ、戦うために反乱軍を誘い込もうとした[5]。しかし逆に包囲を受け、カルタゴ軍はシチリアでハミルカルに仕え、ハミルカルを高く評価していたヌミディア人の指導者であるナラウァス英語版が2,000人の騎兵隊を引き連れてカルタゴ側に投降したことでようやく危機から脱した[52][53]。この出来事は反乱側にとって悲惨な結果を招くことになり、反乱軍は戦闘英語版で10,000人の死者と4,000人の捕虜を出した[54]

この裏切りに憤慨したスペンディウスはカルタゴ軍の捕虜を拷問にかけて手足を切断し、殺害させた[52]。同様にハミルカルもすでに捕らえていた捕虜や後に捕らえた捕虜を象に踏みつけさせて殺害した[55]。カルタゴ軍は反乱軍に対し激しく苦しい戦いを続けたが、徐々に反乱軍を消耗させ、最終的に紀元前238年のレプティス・パルウァの戦い英語版で反乱軍を打ち倒した[56]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 軍事史家のナイジェル・バッグナル英語版は、反乱軍が包囲を受ける可能性のある町を保持していなかったことから、攻城兵器の有用性について疑念を呈している[25]
  2. ^ 現代の河口は紀元前240年時点の河口から数キロメートル北に位置している[28]
  3. ^ ここで述べられている「突撃」部隊とは、敵軍を打ち破ることを意図して敵軍と接触する前かその直後に敵軍との距離を迅速に詰められるように訓練され、活用される部隊のことである[31]
  4. ^ これらの戦象は肩の高さが平均して2.5メートル程度であり、より大きなアフリカゾウと混同しないように注意する必要がある[37]

出典[編集]

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