アレン・コージ
アレン・コージ | |
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1989年 | |
プロフィール | |
リングネーム |
バッドニュース・ブラウン バッドニュース・アレン バッファロー・アレン "バッファロー" アレン・コージ B・L・ブラウン |
本名 | アレン・ジェイムズ・コージ |
ニックネーム |
黒い猛牛 ハーレムの喧嘩屋 |
身長 | 187cm - 188cm |
体重 | 120kg - 123kg |
誕生日 | 1943年10月22日 |
死亡日 | 2007年3月6日(63歳没) |
出身地 |
アメリカ合衆国 ニューヨーク州 ニューヨークシティ |
スポーツ歴 | 柔道 |
トレーナー | アントニオ猪木[1] |
デビュー | 1977年 |
引退 | 1998年 |
獲得メダル | ||
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アメリカ合衆国 | ||
柔道 | ||
オリンピック | ||
銅 | 1976 モントリオール | 重量級 |
パンアメリカン大会 | ||
金 | 1967 ウィニペグ | ヘビー級 |
金 | 1975 メキシコシティ | ヘビー級 |
パンアメリカン柔道選手権 | ||
金 | 1968 サンフアン | ヘビー級 |
アレン・ジェイムズ・コージ(Allen James Coage, 1943年10月22日 - 2007年3月6日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー、モントリオールオリンピック柔道重量級銅メダリスト。ニューヨーク州ニューヨークシティ出身のアフリカ系アメリカ人。
プロレスでは、バッドニュース・ブラウン(Bad News Brown)またはバッドニュース・アレン(Bad News Allen)のリングネームで、新日本プロレス、WWF、カルガリー地区などを主戦場に活躍した[2]。
来歴
[編集]ペンシルベニア州立大学時代に日本人柔道家の米塚義定六段(のち柔道アメリカ代表監督・アメリカ柔道連盟会長)に師事。AAUの柔道選手権重量級で5度優勝し、1975年にパン・アメリカン王者となる[2]。1976年モントリオールオリンピックに出場、柔道重量級で銅メダルを獲得した。
1977年10月25日、当時異種格闘技戦に注力していた新日本プロレスの「格闘技世界一決定戦」(メインイベントはアントニオ猪木対チャック・ウェプナー戦)に初来日。坂口征二と柔道ジャケットマッチを行うが敗退する。同年12月8日にはウィレム・ルスカとも対戦。以降、新日本プロレスの練習生として入門。バッファロー・アレンのリングネームでプロレスラーに転向した。
1978年まではベビーフェイスのポジションでヒールのルスカと抗争を展開したが、1979年に本名のアレン・コージ名義でWWFを短期間サーキットした際[3]、フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎えてヒール修行を行う(バロン・シクルナ、ジョニー・ロッズ、トニー・ガレア、ラリー・ズビスコ、S・D・ジョーンズ、ドミニク・デヌーチ、テッド・デビアス、イワン・プトスキー、フレッド・カリーなどと対戦)[4]。同年夏からはNWAのロサンゼルス地区に出場、同じ黒人ヒールのレロイ・ブラウンやビクター・リベラと組み、マンド・ゲレロ&ヘクター・ゲレロ、ツイン・デビルズ、チャボ・ゲレロ&アル・マドリルなどのチームを破りNWAアメリカス・タッグ王座を3回に渡って獲得した[5]。
1980年より、髪をスキンヘッドにしてバッドニュース・アレンと改名。ラフファイト主体のヒールに変貌し、以降1987年まで新日本プロレスに連続参戦。プロレスに適応できなかったルスカとは対照的に、シリーズに欠かせない名脇役として活躍する。主にタッグマッチに才能を発揮し、タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ブルーザー・ブロディなど、新日本の歴代エース外国人のパートナーを務めた。年末のMSGタッグ・リーグ戦にも、1980年の第1回大会ではルスカ、1981年の第2回大会ではパット・パターソンと組んで出場[6][7]。シングルでは坂口のWWF北米ヘビー級王座に再三挑戦したほか、1984年2月7日には蔵前国技館のメインイベントでアントニオ猪木と対戦[8]。共闘していたブッチャーやラッシャー木村との仲間割れによるアングルも組まれた。
北米マットでは、1982年よりスチュ・ハートが主宰するカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングに定着。同団体のフラッグシップ・タイトルである北米ヘビー級王座を巡り、ダイナマイト・キッド、ブレット・ハート、モンゴリアン・ストンパー、デビッド・シュルツと抗争を繰り広げた[9]。1985年5月25日にはハワイにてラーズ・アンダーソンを破りNWAポリネシアン・ヘビー級王座を獲得[10]。1986年末からはフロリダ地区に参戦、1987年1月20日にロン・シモンズからNWAフロリダ・ヘビー級王座を[11]、1月31日にケビン・サリバンからNWA南部ヘビー級王座を[12]それぞれ奪取している。フロリダではルーキー時代のレックス・ルガーとも度々対戦した[13]。
1988年、バッドニュース・ブラウンとしてWWFと契約。初のPPV登場となる同年3月27日のレッスルマニアIVで行われた20人バトルロイヤルでは、同じヒールとして共闘していたブレット・ハートを裏切って優勝を収めた(この一件によりブレット・ハートはベビーフェイスに転向し、スーパースターへの道を歩むことになる)[14]。その後もケン・パテラやジャンクヤード・ドッグを破り、12月30日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてランディ・サベージのWWF世界ヘビー級王座に挑戦[15]。翌1989年3月11日放送(2月16日収録)のサタデー・ナイト・メイン・イベントではハルク・ホーガンと対戦した[16]。
WWFではニューヨークのハーレム育ちのストリート・ファイターというギミックを与えられ、誰も信用しない一匹狼のヒールとして活躍。タッグマッチを行っても必ずパートナーと衝突し、サバイバー・シリーズでは2年連続でチーム・メンバーと仲間割れを起こし、試合を放り出して一人で控え室に帰ってしまった[17][18]。フィニッシュ技は新日本マットでマスターした延髄斬りで、ハーレムの喧嘩屋というキャラクターに合わせゲットー・ブラスター(Ghetto Blaster)と名付けられた。WWFには1990年下期まで在籍し、ジム・ドゥガン、ロディ・パイパー、ジェイク・ロバーツらトップスターとも短期抗争を行っている[19]。
WWF離脱後は新日本プロレスに復帰し、本国ではカナダに永住してロッキー・マウンテン・レスリングなどのインディー団体を転戦。古巣のカルガリーではハート道場(通称 "ダンジョン" )の臨時コーチ役を務め、クリス・ジェリコらを指導している。1992年8月にはUWFインターナショナルに来日。柔道家時代に培った関節技を多用するなど、それまでの悪役レスラーのイメージとは異なる本来の技巧派ぶりを披露した。1993年12月5日の神宮球場大会では桜庭和志をチキンウィング・アームロックで破っている。
1998年1月にはアダム&ジェイのカナディアン・ロッキーズを帯同して新東京プロレスにも参戦したが、同年に膝を手術して現役を引退。その後はカルガリーでショッピングモールの警備員として働きつつ、再興したスタンピード・レスリングのカラー・コメンテーターを務め、若手選手の指導にも携わった[20]。
2007年3月6日早朝、急性心不全を起こし病院に緊急搬送されるが死去[20]。63歳没。同日、かつて所属していたWWEの公式サイトでも訃報が伝えられた。
エピソード
[編集]- WWF時代のギミックそのままに、喧嘩の強さはレスラー仲間からも一目置かれていた。WWFのバックステージでダイナマイト・キッドが犬猿のルージョー兄弟(レイモンド&ジャック)に闇討ちされた際、キッドの親友である彼が騒ぎに気づいて現れると、ルージョー兄弟は一目散に逃げ出したという[21]。
- 黒人差別を激しく嫌悪し、アブドーラ・ザ・ブッチャーが「自分以上に敏感だった」と語るほどだったという。差別的な発言をしたアンドレ・ザ・ジャイアントをホテルの屋上へ連れ出し「謝らなければここから突き落とす」と脅しをかけたという逸話を残している[22]。
- 1982年、覆面レスラーのブラック・タイガーに変身してタイガーマスクと闘うよう新間寿から要請を受けたが、拒否したためにマーク・ロコが初代のブラック・タイガーとなった[23]。
得意技
[編集]獲得タイトル
[編集]- NWAポリネシアン・パシフィック・ヘビー級王座:1回 [10]
- スタンピード北米ヘビー級王座:4回 [9]
入場テーマ
[編集]- 『スナイパー・フロム・ザ・ダークネス』(作曲:大野雄二)
脚注
[編集]- ^ USJFプロフィール
- ^ a b 『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P12(2002年、日本スポーツ出版社)
- ^ “WWE Yearly Results 1979”. The History of WWE. 2010年5月2日閲覧。
- ^ “The WWE matches fought by Bad News Brown in 1979”. Wrestlingdata.com. 2014年6月6日閲覧。
- ^ a b “NWA Americas Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月14日閲覧。
- ^ “NJPW 1980 The 1st Madison Square Garden Tag Team League”. Puroresu.com. 2020年12月15日閲覧。
- ^ “NJPW 1981 The 2nd Madison Square Garden Tag Team League”. Puroresu.com. 2020年12月15日閲覧。
- ^ “NJPW New Year Golden Series 1984 - Tag 31”. Cagematch.net. 2020年12月15日閲覧。
- ^ a b “Stampede North American Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月14日閲覧。
- ^ a b “NWA Polynesian Pacific Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月14日閲覧。
- ^ a b “NWA Florida Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月14日閲覧。
- ^ a b “NWA Southern Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月14日閲覧。
- ^ “The CWF matches fought by Bad News Brown in 1987”. Wrestlingdata.com. 2014年6月6日閲覧。
- ^ “WWF WrestleMania IV”. pWw - Everything Wrestling. 2010年4月14日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1988”. The History of WWE. 2009年6月17日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1989”. The History of WWE. 2009年6月17日閲覧。
- ^ “WWF Survivor Series 1988”. pWw - Everything Wrestling. 2010年4月14日閲覧。
- ^ “WWF Survivor Series 1989”. pWw - Everything Wrestling. 2010年4月14日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1990”. The History of WWE. 2009年6月17日閲覧。
- ^ a b “Bad News Allen dies suddenly”. SLAM! Sports (March 6, 2007). 2009年6月17日閲覧。
- ^ 『ピュア・ダイナマイト - ダイナマイト・キッド自伝』P242(2001年、エンターブレイン、ISBN 4757706391)
- ^ 『Gスピリッツ Vol.36』P28(2015年、辰巳出版、ISBN 4777814998)
- ^ 『ピュア・ダイナマイト - ダイナマイト・キッド自伝』P94(2001年、エンターブレイン、ISBN 4757706391)
外部リンク
[編集]- WWE Superstars
- Online World of Wrestling
- アレン・コージのプロフィール - Cagematch.net, Wrestlingdata.com, Internet Wrestling Database
- アレン・コージ - JudoInside.com のプロフィール