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スチュ・ハート

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スチュ・ハート
プロフィール
リングネーム スチュ・ハート
本名 ステュアート・エドワード・ハート
身長 178cm[1]
体重 105kg(全盛時)[1]
誕生日 1915年5月3日
死亡日 (2003-10-16) 2003年10月16日(88歳没)
出身地 カナダの旗 カナダ
サスカチュワン州の旗 サスカチュワン州
サスカトゥーン
スポーツ歴 アメリカンフットボール
レスリング
デビュー 1946年[1]
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スチュ・ハートStu Hart、本名:Stewart Edward Hart1915年5月3日 - 2003年10月16日[2]は、カナダプロレスラー、トレーナー、プロモーター。

来歴

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サスカチュワン州サスカトゥーン出身。エドモントン・エスキモーズにも所属したアメリカンフットボール選手でもあったが、レスリングの資質も高く、1939年にはカナダのナショナル選手権で優勝し、オリンピック代表にも選ばれたことがある。しかし、第二次世界大戦により1940年1944年のオリンピック開催は中止、海軍に入隊し選手生活を続けていたが、出場することは叶わなかった[3]

終戦後、1946年ニューヨークでプロレスラーとして活動を始める。現役時代のスタイルはレスリングの経験に基づく関節技の達人で、俗に「シューター」と呼ばれるような実戦派レスラーだったと言われる。アメリカ各地を転戦後、1951年にカナダに戻り、アルバータ州カルガリーにプロレス団体クロンダイク・レスリング(後のスタンピード・レスリング)を立ち上げ、プロモーターとしての活動を開始した。またハート家の地下に造られた道場「ダンジョン」(地下牢の意)でホームステイさせている数々のレスラー志望者をトレーニングし、この中には世界規模のスーパースターになった者も少なくない。この団体はスチュの門下生の他に、日本やイギリスなど各地から選手を招聘して人気を高め、カナダで一大勢力を誇るようになる[3]

1960年のレスラー引退後も時折リングに上がり、1970年代は弟子でもあるアーチー・ゴルディーウェイン・コールマンをはじめ、アブドーラ・ザ・ブッチャーアンジェロ・モスカキラー・トーア・カマタシャチ横内ギル・ヘイズカーティス・イヤウケアビッグ・ジョン・クインミスター・ヒトジン・キニスキーカール・フォン・ショッツドン・ガニアミスター・セキなどのヒールと対戦[1]。プロモーター業は1984年にスタンピード・レスリングをWWFに売却するまで続けた[4]。「ダンジョン」での新人訓練は1992年、77歳で引退。2001年にはカナダ勲章を授与されている。

2003年10月16日脳梗塞のため死去[4]。88歳没。2010年、プロレス業界における功績を称え、WWE殿堂に迎えられた[3]

育成選手

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脚注

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  1. ^ a b c d Stu Hart”. Wrestlingdata.com. 2014年9月20日閲覧。
  2. ^ より原音に近い表記は「ステュー・ハート」だが、本項では日本のプロレス史における慣例的な表記(日本語圏で一般によく知られている名前)を使用する。
  3. ^ a b c Stu Hart Bio”. WWE.com. 2014年9月20日閲覧。
  4. ^ a b Wrestling patriarch Stu Hart dies”. CBC Sports (October 17, 2003). 2014年9月20日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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