バラトプル包囲戦
バラトプル包囲戦 Siege of Bharatpur | |||||||
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第二次マラーター戦争中 | |||||||
バラトプルに攻撃を攻撃を掛けるイギリス軍 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
マラーター同盟 *ホールカル家 *バラトプル王国 | イギリス東インド会社 | ||||||
指揮官 | |||||||
ヤシュワント・ラーオ・ホールカル ランジート・シング | ジェラルド・レイク | ||||||
戦力 | |||||||
10,000人 | 18,000人 | ||||||
被害者数 | |||||||
不明 | 死傷者3,000人以上 |
バラトプル包囲戦(バラトプルほういせん、英語:Siege of Bharatpur)は、1805年1月2日から2月22日にかけてインドのバラトプルにおいて、ホールカル家とイギリス東インド会社との間で行われた第二次マラーター戦争における一連の戦い。バラトプルの戦い(Battle of Bharatpur)とも呼ばれる。
包囲に至る経緯
[編集]1804年12月、ヤシュワント・ラーオ・ホールカルはイギリスとの数々の戦いに負けたのち、バラトプル王国の首都バラトプルへと逃げた。
ヤシュワント・ラーオの向かったバラトプル王国は、彼の父トゥコージー・ラーオ・ホールカルの時代に同盟国となった国である。すでに、バラトプル王ランジート・シングは彼とともにイギリスと戦うことを決めていた。
包囲戦
[編集]1805年1月1日にジェラルド・レイクはディーグを出発し[1]、翌2日に到着。その日のうちにバラトプルを完全に包囲した。
1月9日、イギリス軍はバラトプルの城壁を破壊し、攻撃を仕掛けたが撃退された。 同月20日に仕掛けた攻撃も同様に撃退された。
2月20日、イギリス軍は再びバラトプルを攻撃したが、今度は多大な犠牲を払った上で追い払われた。
翌21日には、イギリス軍は最後の攻撃を行ったがこれも失敗し、翌日にバラトプルからの撤退を余儀なくされた。
イギリス側は一連の戦闘で3,000人以上の死傷者を出し[2]、マラーターの側にとっては久方ぶりの勝利だった。
その後
[編集]とはいえ、4月17日にバラトプル王ランジート・シングはイギリスと条約を結んでしまい、そのためにヤシュワント・ラーオはパンジャーブへと去らなければならなくなってしまった。
その後、ヤシュワント・ラーオはパンジャーブのシク王国の支援を受けたが、12月17日にイギリスと講和を結んだため、同月24日にラージガート条約を締結し、第二次マラーター戦争を終結させた。
出典・脚注
[編集]- ^ A History of British India From the Earliest English Intercourse to the ... - Charles MacFarlane - Google ブックス
- ^ Naravane, M. S. Battles of the honourable East India Company, p. 95