コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

バルス・ボラト・サイン・アラク晋王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バルス・ボラト
ᠳᠠᠶᠠᠨ
ᠬᠠᠭᠠᠨ
モンゴル帝国第35代皇帝(ハーン
在位 1524年

出生 1484年または1490年
死去 1531年または1519年
配偶者 ボダン・ハトン
子女 グン・ビリク・メルゲン晋王アルタン・ハーン、ラブク太子、バイスハル・コンデレン・ハーン、バヤンダラ・ナリン太子、ボディダラ・オトハン太子、タラハイ太子
家名 ボルジギン氏
父親 ダヤン・ハーン
母親 マンドゥフイ・ハトゥン
テンプレートを表示

バルス・ボラト・サイン・アラク晋王1484年 - 1531年または1490年頃 - 1519年)は、オルドス・トゥメンの晋王(ジノン)。ダヤン・ハーンの三男で、アルタン・ハーンの父。バルス・ボロド(barsu bolud)、バルス・ボラド(barsu bolad)、バルスボラド(barsubolad)、バルスバラド(barsubalad)、バルスバラド・サイン・アラグ・ハーン(barsubalad sayin alaγ qaγan)とも表記され、『夷俗記』「世系表」では賽那剌と表記される。[1]

生涯

[編集]

1484年、ダヤン・ハーンの三男として生まれる[2]

1508年、兄のウルス・ボラト晋王が右翼のイバライ(イブラヒム)太師、マンドゥライ・アハラフらに殺されたため、トゥメト・トゥメンのチェグト部のホーサイ・タブヌンの家に居たバルス・ボラト一家は、オルドス・トゥメンのコブート部のテムルら7人と共に右翼を脱出し、左翼にいる父ダヤン・ハーンのもとへ逃れた。ダヤン・ハーンはテムルら7人に太師や大ダルハンの称号を与え、右翼三トゥメンに向かって出陣し、ガハイ・エレスンの戦い、ダラン・テリグンの戦いで右翼三トゥメンを降し、ウルス・ボラトの仇を取った[3]

1512年、29歳(もしくは23歳)で晋王(ジノン)の位につき、オルドス・トゥメンを領す[4]

1524年、ダヤン・ハーンが崩御すると、その長男のトロ・ボラト、次男のウルス・ボラトがすでに亡くなっていたため、三男であるバルス・ボラト・サイン・アラク晋王はトロ・ボラトの長男(異説として、ウルス・ボラトの長男)であるボディ・アラクがまだ若いからといって、自ら帝位についた。しかしまもなく、ボディ・アラクは左翼三トゥメンを率いて八白室(ナイマン・チャガン・ゲル:チンギス・カン廟)に跪拝して帝位につくべく、叔父であるバルス・ボラト・サイン・アラク晋王に激しく叱責し、譲位を迫った。激しく叱責されたバルス・ボラト・サイン・アラク晋王はボディ・アラクに帝位を譲り、ボディ・アラクは八白室に跪拝してハーンとなった[5]

1531年、48歳で亡くなり、翌年(1532年)長男のグン・ビリクが後を継いで晋王となる[4]。ただし、近年では1519年に30歳頃で亡くなり、翌1520年にグン・ビリクが晋王を継いだとする説が有力視されている。

[編集]
  • ボダン・ハトン

[編集]

[6]

脚注

[編集]
  1. ^ 吉田 1998,p232
  2. ^ 岡田 2004,p239
  3. ^ 岡田 2004,p230-236
  4. ^ a b 岡田 2004,p251
  5. ^ 岡田 2004,p242
  6. ^ 岡田 2004,p250

参考資料

[編集]
先代
ウルス・ボラト晋王
晋王(ジノン
1512年 - 1531年
次代
グン・ビリク・メルゲン晋王