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MC5作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

MC5作戦は、1941年(昭和16年)1月3日イギリス海軍が、北アフリカ戦線枢軸国軍と交戦する連合国の陸軍(イギリス陸軍英連邦軍など)を支援するため実行した、北アフリカリビアバルディア英語版付近に対する艦砲射撃アフリカ西部砂漠戦役英語版にともなうバルディア攻防戦英語版の一環である。

概要

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1940年(昭和15年)6月10日、イタリア王国イギリスフランス宣戦布告[1]、枢軸陣営として第二次世界大戦にくわわって地中海攻防戦が始まった[2]地中海戦域)。北アフリカのイタリア領リビアでは、国境線カプツォ砦などでイタリア軍とイギリス軍の小競り合いが始まった[3]。 9月になると、リビアのイタリア王立陸軍 (Regio Esercito) は英領エジプトへ侵攻し、第10軍団イタリア語版英語版機械化部隊英語版イタリア語版シディ・バラニ英語版イタリア語版まで進撃する[4]イタリアのエジプト侵攻[注釈 1]。このあとムッソリーニ首相はギリシャに対する侵攻を企て、10月28日よりギリシャ・イタリア戦争が勃発した[6]

北アフリカ所在のイギリス側では、中東方面軍(総司令官ウェーヴェル陸軍大将)と、隷下のオコーナー陸軍中将が率いる西方砂漠軍 (Western Desert Force) が反攻作戦を準備した[7]。 12月、ウェーヴェル将軍が率いる連合国軍は[注釈 2]コンパス作戦を発動して反撃を開始する[9]。 連合国軍地上部隊は敗走するイタリア軍を追撃し、1941年初頭になるとエジプトとの国境に近いリビアのバルディアに迫った[10][注釈 3]。 当時のバルディア守備隊の指揮官は、第23軍団司令官のアニベール・ベルゴンゾリ英語版イタリア語版将軍であった[注釈 4]

バルディアを攻撃するのは英連邦のオーストラリア陸軍第6師団)であり、これが第二次世界大戦において同軍が初めて経験する本格的地上戦だった。連合軍地上部隊を支援するため、イギリス地中海艦隊 (カニンガム提督) が投入される[12]。 艦砲射撃はまずモニターテラー (HMS Terror, I03) 、インセクト級砲艦レディバード (HMS Ladybird) 、エイフィス (HMS Aphis) 、ナット (HMS Gnat, T60) により行われ、それに続いて戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) 、ヴァリアント (HMS Valiant) 、バーラム (HMS Barham) による砲撃が行われた[注釈 5]。これを空母イラストリアス (HMS Illustrious, R87) の艦上機が支援した[注釈 6]クイーン・エリザベス級戦艦による砲撃は1941年1月3日の午前8時に開始された[13]。バルディアの南東から接近した英戦艦部隊は、最初は北に向かいながら砲撃を行い、その後反転して再度砲撃を行った[注釈 7]。イタリア軍の砲台による反撃も行われたが、ほとんど効果はなかった[14]

1月5日、英連邦軍はバルディアを占領した[注釈 8][注釈 9]

脚注

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注釈

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  1. ^ アフリカの戰[5] フランスと休戰を爲して後のイタリーは獨軍の本土攻撃にも参加すると同時に英領ソマリーランド攻撃を開始し、僅々十七日の短時日間にこれを占領し去つた。又同時にエヂプトにも侵撃し、地中海に面せる海岸の要地シデイ・バランデーをも占領した。併し、此成功は十二月十六日になつて俄然一變し、其日を一期としてダラヂアニー元帥指揮下の在エヂプトイタリー軍は苦心情態に陥り、シデイ・バランデイも終に英軍の奪囘する所となつた。此戰に於てイタリー軍を惱ましたのは主として英軍のタンク隊であつた。/ 爾来イタリー軍はバーデアに喰い止まり、懸命にイギリスの新鋭攻勢に抗することになつたが、終に一月五日バーデアも敵に奪取されることになり、其後苦戰を續けてゐた。/ 併し、これは決してイタリー軍がアフリカに於て再起不能情態に置かれたのでは無かつた。/ 同様の事がギリシヤ戰に於ても言ひ得らる。アルバニアに侵撃して來たギリシヤ軍は國境近くのマリツアを取り、海岸のサンテークアランターを占領したりしてゐたが、イタリー軍は其間降服せねばならぬ情態に置かれたのではない。
  2. ^ 北阿遠征戰[8](中略)イタリヤ軍側でも戰況好轉せず、イタリヤ空軍の至寶バルボ元帥が戰死するなど、一向に芳しくなかつた。イタリヤ軍總司令官は参謀總長グラチアーニ元帥で、アフリカ派遣軍の外土民兵が、之に積極的に協力して攻撃を執つてゐた。/ 一九四〇年末になると北阿の気候も作戰に好適となつてきたので、イギリス側は英國近東軍司令官ウエーヴエル大将を送つて、一大攻勢の計畫を樹てた。ウエーヴエル大将麾下にはオーストラリヤ、ニュージーランドを初め近東派遣軍の一部が來り加はり、更に自由フランスド・ゴール将軍の部隊もあつて、絶對優勢の地上兵力と多數の飛行機をもつて、一擧に伊領リビヤを征服して、首都トリポリを占領せんと、ソルムから海岸沿ひに猛進撃を開始した。特に一九四〇年十二月である。(以下略)
  3. ^ 北阿遠征戰[8](中略)イギリス軍は國境を突破して、附近の寒村でイタリヤ軍の據點ボルト・バルデイアに、數個のイタリヤ師團を包圍した。伊軍の抵抗は頑強で、海上、空中、地上よりするイギリス軍に如何にしても屈せず、司令官は遂に一身を犠牲にして、最後まで抗戰した。十二月中旬から一月六日まで、實に二十五日の長い間この小さな漁村に立籠つたイタリヤ軍は、最後の一彈まで撃ち盡して敗れたのである。その後トブルクでも強い抵抗に及び、キレナイカの首都ベンガヂを陥れたのは、二月の六日であつた。英全土は初めての戰勝に酔ひ、意氣沮喪の危機を脱して、戰況の将來に幾分かの希望を抱きはじめた。政府では直に米國の援助を吹聴して士氣を大いに煽つた。(以下略)
  4. ^ 電気髭 (barba elettrica) の渾名で親しまれていた[11]
  5. ^ 防空巡洋艦カルカッタ (HMS Calcutta) 、駆逐艦4隻が護衛していた[13]
  6. ^ 英空母を、巡洋艦2隻と駆逐艦4隻が護衛していた[13]
  7. ^ 記録では、ウォースパイトは15インチ砲弾を96発、6インチ砲弾116発を発射した[12]。ヴァリアントとバーラムは15インチ砲弾合計150発、6インチ砲弾154発、5インチ砲弾240発を発射した[12]
  8. ^ バーデアの戰[15] 左は二十五日の久しい間イタリー軍がイギリス軍の攻戰に死力を盡して防戰して後、終に英軍の手に陥つたバーデアの戰に關してのイタリー最高司令部の報告であるが、イタリー軍敗戰の原因を明かにするものである。
    「バーデアに於て抗戰を續けてゐた數個の最期の保塁は一月五日の夕方、終に敵の手に落ちた。過去二十五日間勇氣の有らん限りを盡し敵に大損害を與へてゐた我軍も終に力盡きたのである。我軍の損害も兵員物資共に多大であつた。この日ドムブルグに襲撃して來た或敵軍機の一隊の内、二機は我軍の高射砲に依つて射たれ火の玉となつて墜落した。」
    斯くイタリーは殘念にもリビヤの地中海に面してゐる二つの港、即ち、バーデアに於てもトブルツクに於ても敗戰の苦杯を嘗めさせられたが、これは英軍の方では優勢な機械部隊を有してゐたに拘らずイタリー側は舊式であつたからである。其他地中海上の英海軍の監視が嚴であつた爲、輸送力の不充分であつた事及び土民兵が充分イタリーの爲に戰ふ意志に缺けてゐた事などが大なる原因を成したものと見ねばならぬ。(以下略)
  9. ^ 英連邦軍の損害は戦死130名/負傷者326名、イタリア軍は約4万5000人が捕虜となり、400門以上の野砲と戦車129輌が鹵獲された[11]

出典

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参考文献

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  • V.E.タラント「第八章 ― カニンガムの池」『戦艦ウォースパイト 第二次大戦で最も活躍した戦艦』井原祐司 訳、光人社、1998年11月。ISBN 4-906631-38-X 
  • アントニー・ビーヴァー「第9章 広がる波紋 1940年6月~1941年2月」『第二次世界大戦 The Second World War 1939 ― 45 上』平賀秀明 訳、白水社、2015年6月。ISBN 978-4-560-08435-9 
  • ケネス・J・マクセイ『ロンメル戦車軍団 独英、砂漠の対決』加登川幸太郎 訳 、株式会社サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫3〉、1984年12月。ISBN 4-383-02355-X 

外部リンク

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関連項目

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