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バンダールカール事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

バンダールカール事件(バンダールカールじけん)は、1846年10月31日ネパール王国の首都カトマンズハヌマン・ドーカ宮殿の会食場バンダールカールで発生した事件。

事件に至るまで

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1846年9月、筆頭大臣ガガン・シンハ・カワースの暗殺に端を発した事件は、首相のファッテ・ジャンガ・シャハら重臣の大部分の虐殺によって帰結した(王宮大虐殺事件)。

事件後、ジャンガ・バハドゥル・クンワルラジェンドラ王の王妃(第二正妃)ラージャ・ラクシュミー・デビーによって、首相兼全軍最高司令官に任命された。また、ジャンガは殺されて空席になった重臣の官位や軍の役職に弟、甥といった一族を任命した[1]

王妃はその後、ジャンガ・バハドゥルに王太子スレンドラと弟のウペンドラを殺害し、自分の息子ラネンドラを王にするように取り計らうように命じた[2]。だが、ジャンガは王宮や軍で確固たる立場を確立していたので、スレンドラ殺害は正義に欠くとし、必要によっては王妃を国法によって罰すると述べた[2]

王妃は自分が取り立てたジャンガが敵対したことに激怒し、側近のビール・ドワジ・バスネット、ガガン・シンハの息子バジール・シンハ・カワースとその暗殺を企てた[2]。ビール・ドワジには計画成功の暁には首相に任命するとの勅令を与えたが、この勅令の手渡しに立ち会った王師ビジャイ・ラージ・パンデは以前からのジャンガの味方であり、計画のすべてがジャンガに伝わっていた[2]。そして、そのまま計画実行当日を迎えた。

事件の発生とその後

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10月31日朝、計画実行の日、王妃らは王宮の会食場バンダールカールですべての準備を終えていた[2]。食事には毒が盛られており、もしジャンガが食事に手を付けなければ、バンダールカールに潜んでいる40、50名の兵がバジール・シンハの合図で銃殺する手筈であった[2]

準備後、ビール・ドワジがジャンガたちを迎えに行った[2]。だが、ジャンガとその弟たちは軍隊を率いてバンダールカールに向かっており、途中で出会ったビール・ドワジはその場で銃殺された[2]

ビール・ドワジの殺害後、ジャンガは王宮のバサンタプル宮殿でラジェンドラ王に謁見し、陰謀のすべてを暴露した[2]。そして、王と王太子に敵対する勢力の討伐命令を受け、バンダールカールへと向かった[2]

ジャンガらはバンダールカールに直ちにその制圧に取り掛かった。降伏した者は捕らえたが、降伏しなかったバスネット家の約15名はことごとく銃殺され、混乱の中でバジール・シンハは逃げた[3]。こうして、暗殺計画は失敗に終わり、事件は終結した[3]

事件後、ジャンガは練兵所で会議を開き、王妃が王太子と首相を殺害しようとした事実を告発し、全会一致で王妃の国外追放を議決、王と王太子の署名を得た[3]。この結果、11月に王妃は自分の息子ラネンドラ、ビレンドラとともにヴァーラーナシーへと向かい、ラジェンドラ王も2、3ヶ月の予定で王太子に全権を与える命令を出してともに出国した[3]

ヴァーラーナシー到着後、ラジェンドラ王は亡命していたファッテ・ジャンガの弟グル・プラサード・シャハランガ・ナート・パウデルジャガット・バム・パンデらと謁見し、彼らは王に挙兵を進言し、王は挙兵した[3]。だが、ジャンガはラジェンドラを廃位してスレンドラを新王とし、軍を送ってこれを打ち負かし、ラジェンドラを捕らえてバクタプルに幽閉した[4]

かくして、ジャンガは自分の意のままになるスレンドラ王を擁立し、完全に全権を掌握した独裁者となり、王に等しい存在となった[4]

脚注

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  1. ^ 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.540
  2. ^ a b c d e f g h i j 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.541
  3. ^ a b c d e 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.542
  4. ^ a b 佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.543

参考文献

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  • 佐伯和彦『世界歴史叢書 ネパール全史』明石書店、2003年。 

関連項目

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