パールケードの戦い
パールケードの戦い | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
マラーター王国 | ニザーム王国 | ||||||
指揮官 | |||||||
バージー・ラーオ | カマルッディーン・ハーン | ||||||
戦力 | |||||||
不明 | 不明 |
パールケードの戦い(パールケードのたたかい、マラーティー語:पालखेडची लढाई, 英語:Battle of Palkhed) は、1728年2月28日にインドのナーシク近郊パールケードにおいて、マラーター王国とニザーム王国との間で行われた戦い。
戦闘に至る経緯
[編集]1724年にムガル帝国の宰相カマルッディーン・ハーンが独立し、デカン地方にニザーム王国を樹立すると、翌年に彼は帝国からデカン6州の権利を認められた。
ところが、1718年7月にマラーター王国はムガル帝国領のデカン6州に関して、チャウタおよびサルデーシュムキーを帝国に認められていたため、ニザーム王国との対立が始まった[1]。
1727年初頭、マラーター王国宰相バージー・ラーオが南インドのカルナータカ地方に遠征中、ニザーム王国が彼に敵対するマラーターの武将らとともに攻め込んできた[1]。同年4月にバージー・ラーオもカルナータカ遠征を終え[2]、ニザーム王国の軍と対峙するために本国へと戻った。
戦闘とその後の経過
[編集]1728年2月、ニザーム王国の軍にプネー及びその周辺の地域を占領され、マラーター王シャーフーはプランダル城へと逃げた[1][2]。それと同時にバージー・ラーオはカルナータカ地方遠征から帰還し、ニザームの軍を迎撃した。
かくして、同月28日マラーター軍とニザーム軍はナーシク近郊の村パールケードで激突した。戦いはマラーター軍の勝利に終わり、ニザームの軍勢はこれに屈服した。 この勝利により、バージー・ラーオは対立するマラーター諸将を排することに成功し、王国の実権を掌握した[3]。
同年3月6日、マラーター王国とニザーム王国との間に講和が結ばれた[3]。これにより、マラーターはデカンにおけるチャウタとサルデーシュムキーをニザームに認めさせた[3]。
次にマラーターとニザームが激突するのは約10年後の1737年12月、ボーパールの戦いである。
脚注
[編集]- ^ a b c 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.214
- ^ a b 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.38
- ^ a b c Maratha Chronicles Peshwas (Part 2) Glory of the Peshwas