ヒュー・エドウィン・ストリックランド
ヒュー・エドウィン・ストリックランド(Hugh Edwin Strickland、1811年3月2日 - 1853年9月14日)はイギリスの地質学者、鳥類学者である。
略歴
[編集]ノース・ヨークシャーのレイトン(Reighton)に生まれた。母方の祖父のエドモンド・カートライトは、自動織機の開発で有名な人物である[1]。1829年からオクスフォード大学のオリオル・カレッジで学んだ。ジョン・キッドの解剖学の講義や、ウィリアム・バックランドの地質学の講義を受けた。1831年にB.A.、1832年に M.A.の学位を得た。
1836年にテュークスベリー(Tewkesbury)近くの屋敷に移り、イブシャム(Evesham)の地質の研究を行い、ロンドン地質学会に論文を提出した。地質学者のロデリック・マーチソンにウィリアム・ジョン・ハミルトンを紹介され、1835年にハミルトンとレバント地方の地質学調査を行い、ボスポラス海峡のトラキア側やザキントス島なども訪れた。後にこの旅行の成果を"Researches in Asia Minor, Pontus and Armenia (1842)として"発表した。その後ウスターやウォーリックの地層の化石などを研究し、1840年にマーチソンと"On the Upper Formations of the New Red Sandstone System in Gloucestershire, Worcestershire and Warwickshire"を発表した。
鳥類学の分野でもロンドン動物学会の雑誌などに論文を発表し、生物名の命名規則などについても先駆的な意見を主張した。
1845年に博物学者として知られる、アップルガースの第7代準男爵、ウィリアム・ジャーディン(William Jardine)の娘、キャサリーン(Catherine Dorcas Maule Jardine)と結婚し、キャサリーンは父親の編集した著書『鳥類学図譜』("Illustrations to Ornithology")にCDMSのイニシャルで図を描いた[2] 。
1844年に科学の分野の出版を推進するレイ協会(Ray Society)の創立メンバーの1人であり、いくつかの書籍の出版に貢献した。
1850年から病気のバックランドのかわりにオクスフォード大学の地質学の講師(deputy reader)を務めた。1852年に王立協会のフェローに選ばれた。翌年鉄道事故で死亡した。
6000種を超えるストリックランドの鳥類標本は1867年にケンブリッジ大学に納められた。いくつか新種の鳥類を記載し、キツツキ科の鳥類の種(Leuconotopicus stricklandi:英名 Strickland's woodpecker)などに献名されている。
参考文献
[編集]- ^ Strickland, Hugh Edwin Dictionary of National Biography, 1885-1900, Volume 55 by George Simonds Boulger
- ^ http://www.stanford.edu/group/auden/cgi-bin/auden/individual.php?pid=I8517&ged=auden-bicknell.ged
- Biographies for Birdwatchers by Barbara and Richard Mearns ISBN 0-12-487422-3
- Jardine, William (1858) Memoirs of Hugh Edwin Strickland, M. A., John Van Voorst, London, (417 pp.).