コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ヒュー・カールトン (初代カールトン子爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヒュー・カールトン、1775年。

初代カールトン子爵ヒュー・カールトン: Hugh Carleton, 1st Viscount Carleton PC (Ire) KC1739年9月11日1826年2月25日)は、アイルランド王国の裁判官、政治家、貴族。アイルランド法務次官英語版(1779年 – 1787年)、アイルランド民訴裁判所主席裁判官英語版(1787年 – 1800年)、アイルランド貴族代表議員(1801年 – 1826年)を務め、1798年にユナイテッド・アイリッシュメン協会英語版シアーズ兄弟英語版に死刑判決を出したことで知られる[1]

生涯

[編集]

商人フランシス・カールトン(Francis Carleton、1713年 – 1791年、ジョン・カールトンの三男)と妻レベッカ(1797年2月没、ヒュー・ロートンの娘)の息子として、1739年9月11日に生まれた[2][3]。出生地は『オックスフォード英国人名事典』でコークと推測された[4]キルケニー・カレッジ英語版に3年間通った後、1755年にダブリン大学トリニティ・カレッジに入学、同大でいくつか賞を取った[4]。1758年にミドル・テンプルに入学、1764年にダブリンキングス・インズ英語版で弁護士資格免許を取得した[2]。1768年、勅選弁護士英語版に選出された[2]

1772年から1776年までチュアム選挙区英語版の、1776年から1783年までフィリップスタウン選挙区英語版の、1783年から1787年までネイス選挙区英語版の代表としてアイルランド庶民院議員を務めた[2]。議員就任の背景には父の影響力を鑑みたアイルランド総督第4代タウンゼンド子爵の後援があった[4]。議員としては政府の安定している支持者と評価された一方[4]、声が小さくて演説が聞こえないことが頻繁にあった[1]

法曹界では1776年に第三上級法廷弁護士英語版[注釈 1]に任命され、1777年に第二上級法廷弁護士に昇進した[2]。1779年から1787年までアイルランド法務次官英語版を務めた後、1787年にアイルランド民訴裁判所主席裁判官英語版に転じ、同年5月11日にアイルランド枢密院英語版の枢密顧問官に任命された[2]。1789年9月17日、アイルランド貴族であるティペラリー県アンナーのカールトン男爵に叙された[2]アイルランド貴族院はアイルランドにおける上訴裁判権を取り戻したばかりであり、貴族院における法律の専門家を増やすほか、アイルランド首席裁判官英語版初代アールズフォート男爵ジョン・スコット英語版アイルランド財務府裁判所主席裁判官英語版初代イェルヴァートン男爵バリー・イェルヴァートンの影響力を相殺する狙いもあった[4]。このうち、スコットとカールトンはカールトンの政界入り初期より友人関係にあったが、後に敵対するようになり、スコットはカールトンの出自が商人の家系であることを言い立ててカールトンに不快感を与えた[1]

1797年11月21日、アイルランド貴族であるティペラリー県クレアのカールトン子爵に叙された[2]ユナイテッド・アイリッシュメン協会英語版シアーズ兄弟英語版1798年アイルランド反乱英語版直前に逮捕され、反乱の最中に裁判にかけられると、兄弟に死刑判決を出し、アイルランドでカトリックが多数を占めたこともあり人気を失った[1][4]

1800年秋に多額の年金を受け取って民訴裁判所主席裁判官を退任、ロンドンに引っ越した[1][4]。合同法への支持により[1][4]、1801年にグレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立するとともにアイルランド貴族代表議員に選出され、1826年に死去するまで務めた[2]貴族院での演説は少なかったが、アイルランドに関する裁判[注釈 2]で裁判官を務めることが多く、その功績により1810年7月3日にオックスフォード大学より民法学博士英語版の名誉学位を授与された[2][4]。この授与には元首相初代グレンヴィル男爵オックスフォード大学学長英語版に就任した影響もあったとされる[1]

1826年2月25日、メイフェアハノーヴァー・スクエア英語版にある自宅で死去、爵位はすべて廃絶した[2]。遺産は弟ジョンの息子フランシス(1780年8月6日 – 1870年1月26日)が相続した[3]

人物

[編集]

パンフレットの収集家であり、法律、憲法、政治、宗教に関するパンフレットを集めた[4]。1788年に王立アイルランドアカデミー英語版会員に選出され、死後の1842年にリンカーン法曹院がカールトンのコレクションを購入した[4]

サー・ジョナー・バリントン英語版によれば、カールトンは心気症とされる[1][4]

家族

[編集]

1766年8月2日、エリザベス・マーサー(Elizabeth Mercer、1794年5月27日没、リチャード・マーサーの娘)と結婚した[2]。1795年7月15日、メアリー・バックリー・マシュー(Mary Buckley Mathew、1810年3月13日没、アベッドネゴ・マシューの娘)と再婚した[2]。2度の結婚で子女をもうけなかった[5]

注釈

[編集]
  1. ^ この時期のアイルランドでは上級法廷弁護士が3人任命され、それぞれPrime serjeantSecond serjeantThird serjeantと呼ばれた。本文では「第一」「第二」「第三」と訳し分けた。
  2. ^ 訳注:1801年以降のイギリス貴族院はアイルランドにおける上訴裁判権を有していた。貴族院 (イギリス)#かつての最高裁判所機能についてを参照。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h Geoghegan, Patrick M. (October 2009). "Carleton, Hugh". In McGuire, James; Quinn, James (eds.). Dictionary of Irish Biography (英語). United Kingdom: Cambridge University Press. doi:10.3318/dib.001479.v1
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 26.
  3. ^ a b Burke, Sir Bernard; Fox-Davies, Arthur Charles (1912). A Genealogical and Heraldic History of the Landed Gentry of Ireland (英語) (3rd ed.). London: Harrison & Sons. p. 97.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l Hart, A. R. (23 September 2004). "Carleton, Hugh, Viscount Carleton". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/4675 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  5. ^ Henderson, Thomas Finlayson (1887). "Carleton, Hugh" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 9. London: Smith, Elder & Co. p. 95.

外部リンク

[編集]
アイルランド議会
先代
ウィリアム・ハル
リチャード・パワー英語版
庶民院議員(チュアム選挙区英語版選出)
1772年 – 1776年
同職:ウィリアム・ハル
次代
ジェームズ・ブラウン英語版
サー・ヘンリー・リンチ=ブロス準男爵英語版
先代
デューク・タイレル
lリチャード・ロッチフォート=マーヴィン閣下英語版
庶民院議員(フィリップスタウン選挙区英語版選出)
1776年 – 1783年
同職:ジョン・ハンドコック英語版
次代
ジョン・トラー
ヘンリー・コープ
先代
ジョン・バーク閣下
トマス・アラン英語版
庶民院議員(ネイス選挙区英語版選出)
1783年 – 1787年
同職:ネイス卿
次代
ネイス卿
サー・リチャード・ゴージェス=メレディス準男爵英語版
司法職
先代
ジョージ・ハミルトン英語版
第三上級法廷弁護士英語版
1776年 – 1777年
次代
アティウェル・ウッド英語版
先代
モーリス・コッピンジャー英語版
第二上級法廷弁護士
1777年 – 1779年
次代
アティウェル・ウッド英語版
先代
ロバート・ヘレン英語版
アイルランド法務次官英語版
1779年 – 1787年
次代
アーサー・ウルフ
先代
マーカス・パターソン英語版
アイルランド民訴裁判所主席裁判官英語版
1787年 – 1800年
次代
ノーベリー男爵
アイルランドの爵位
爵位創設 カールトン子爵
1797年 – 1826年
廃絶
カールトン男爵
1789年 – 1826年