東ローマ帝国支配下のギリシャ
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東ローマ帝国支配下のギリシャでは、東ローマ帝国支配下のギリシャのことを記す。
公用語がギリシャ語に変わる
[編集]ギリシャ半島は紀元前146年にローマ帝国に組み込まれた。286年、ローマ皇帝ディオクレティアヌスはローマ皇帝権を分割し、現代のギリシャ共和国にあたる部分の統治は、東ローマ皇帝が担当することになった。東ローマ帝国の人々はローマ人からはギリシャ人と呼ばれていたが、6世紀頃になると自分たちのことをローマ人と自称するようになり、彼らは7世紀に公用語がラテン語からギリシャ語に変わった後もローマ人を自称し続けた。
スラヴ人、アヴァール人の侵入
[編集]540年ごろからギリシャ地域にスラヴ人の進入が始まった。558年にはコンスタンティノープルに攻撃を加えた後、南下しテルモピュレーまで進撃したスラヴ人部隊も出現した。その後ティベリウス2世治下の580年、モンゴル系のアヴァール人とスラヴ人の大侵入がはじまりギリシャの諸都市を次々破壊していった。アヴァール人はドナウ川以北へ追い払うことができたが、スラヴ人はそのままギリシャの村に定住していった。その後サーサーン朝ペルシア帝国と同盟を結んだアヴァール人は再びドナウ川を越えてバルカン半島に侵入を開始した。スラヴ人も攻撃に加わり、ヘラクレイオスの治下になると湾岸部を除くギリシャの大部分がスラヴ人の支配下になった。テッサロニキやペロポネソス南端のモネンヴァシアはギリシャ人の手に残ったが、ギリシャ都市の多くは荒廃、スラヴ化したため、スクラヴィニアと呼ばれた。
東ローマ帝国によるギリシャ再征服
[編集]東ローマ帝国はギリシャを取り戻すべく、またスラヴ人の捕虜を得るべく幾度かスクラヴィニアに遠征を行い、ギリシャを再征服していった。ニケフォロス1世治下ではテマ・マケドニア、テマ・ヘラス、テマ・テッサロニキ、テマ・ペロポネソスが設置されており、ギリシャ人の再移住とスラヴ人のギリシャ化が進んだ。土地の再開発も進み、トラキアやテッサリアの平原では小麦が生産され、テーバイでは織物の工場が建てられ、それら生産物が税としてコンスタンティノープルに納められるようになった。だが、東ローマ帝国の支配は、アテネの主教が「一体あなた方に何の不足があるのか。テーバイの絹織物ではあるまい、テッサリアやマケドニアでとれた小麦でもあるまい。それはみな我々が作ったものだ。だが、すべての物はコンスタンティノープルに流れて行ってしまう。」と嘆くほどの重税による圧政に苦しめられた。そのため884年にコルフ島がノルマン人に占領された時や後の十字軍の侵入時、現地の市民は侵入者たちをコンスタンティノープルの中央政府からの圧政からの解放者として歓迎した。
ブルガリア帝国の侵入
[編集]10世紀、シメオン1世の下で強大になったブルガリア帝国はコンスタンティノープルを攻撃する一方で、ギリシャへも攻撃を加えており一時はペロポネソス北端までブルガリア軍の制圧下に入った。927年にシメオンが死亡するとブルガリア帝国は勢力が衰退したため、ギリシャは東ローマ帝国の支配下となったが、997年に即位したサムイルによってギリシャは再び東ローマ帝国とブルガリア帝国の戦場となり、ギリシャは大きな被害を受けた。だが、1018年バシレイオス2世によってブルガリア帝国が滅ぼされたため、ギリシャは再び東ローマ帝国の支配下となった。
ノルマン人の侵入
[編集]南イタリアを征服したノルマン人、ロベルト・イル・グイスカルドは東ローマ征服をもくろみ、バルカン半島に侵入した。この遠征は東ローマの抵抗とロベルトの病死によって中止されたが、この後もノルマン人は1148年、1185年にギリシャに侵攻した。特に1185年ではテッサロニキが陥落し、市民は虐殺されるなど大きな被害を受けた。
十字軍国家の樹立
[編集]1204年、第四回十字軍によって東ローマ帝国が滅亡。ギリシャにもアテネ公国、アカイア公国などの十字軍国家と東ローマ貴族の亡命政権である、エピロス専制侯国が樹立された。1261年にニカイア帝国がコンスタンティノープルを占領し、新たな東ローマ帝国となったが、かつての国力は失われていたのと、ギリシャに樹立された国々も東ローマ帝国に敵対したため、東ローマ帝国がギリシャを完全に支配することはできなかった。1453年、東ローマ帝国はオスマン帝国に滅ぼされ(コンスタンティノープルの陥落)、ギリシャもオスマン帝国の支配下になった。
参考文献
[編集]- ギリシア史 (新版 世界各国史) 桜井 万里子 (編集)