10世紀
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千年紀: | 1千年紀 |
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世紀: | 9世紀 - 10世紀 - 11世紀 |
十年紀: |
900年代 910年代 920年代 930年代 940年代 950年代 960年代 970年代 980年代 990年代 |
10世紀(じっせいき)は、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。
できごと
[編集]- 日本では平安時代中期に差し掛かるころである。律令国家体制を支えていた古墳時代以来の在地首長階層と彼らに率いられていた伝統的な地域共同体が急速に没落し、それに依存していた班田や戸籍による地方統治や税収が困難となる。この地方社会の変動への対策として地方に赴く筆頭国司(受領)に大きな権限を与え、あらたに経済力を握り台頭してきた富豪層を負名に編成し、田堵として公田経営を請け負わせる王朝国家体制への社会変動で律令制は形骸化した。受領の国衙統治において私的武力を蓄えた富豪層を統制する軍事警察力を担う階層として武士が登場することで中世社会への変化が本格的に生じる。
900年代
[編集]→詳細は「900年代」を参照
910年代
[編集]→詳細は「910年代」を参照
- 910年
- 911年
- 912年 - 『延喜式』の編集を促進させる。
- 913年
- 東ローマ帝国でコンスタンティノス7世が即位(- 959年)。
- ブルガリア王シメオン1世がコンスタンティノポリスに入城し皇帝を称す。
- 後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世がセビリアのアルカサル(要塞)を建設。
- 914年
- オルドーニョ2世が即位しオビエドからレオンに遷都(アストゥリアス王国がレオン王国となる)。
- 東ローマ帝国で首都総主教ニコラオス・ミュスティコスが失脚し、母后ゾエ・カルボノプシナが摂政となる。
- 三善清行が醍醐天皇に『意見十二箇条』を提出する。
- 915年
- 916年 - ラーシュトラクータ朝インドラ3世の北伐によりプラティハーラ朝の都カナウジが陥落する。
- 917年 - ドイツの部族大公国としてシュヴァーベン公国が成立する。
- 918年
- 919年
920年代
[編集]→詳細は「920年代」を参照
- 920年 - 遼の耶律阿保機が契丹文字を制定させる。
- 920年頃 - 中国内蒙古自治区トルキ山遼墓の「彩色木棺」が作られる。
- 921年
- アッバース朝カリフのムクタディルがアフマド・イブン・ファドラーンらの使節をヴォルガ・ブルガールに派遣する。
- ボン条約により東フランク王ハインリヒ1世と西フランク王シャルル3世が王位を相互承認。
- 空海に「弘法」の大師号が贈られる。
- 922年
- 923年 - 李存勗(荘宗)が後梁を滅ぼし、洛陽を都に後唐を建国。
- 924年 -アゼルスタンが全イングランドの王として即位( - 939年)
- 925年頃 - トミスラヴが最初のクロアチア王となる。
- 926年
- 927年
- 928年
- ジャワ東部にクディリ朝が成立。
- バグラトゥニ朝アルメニアの都がシラカヴァンからカルスに遷される。
- 929年
930年代
[編集]→詳細は「930年代」を参照
- 930年
- 932年
- 933年 - 上ブルグント王国が下ブルグント王国を併合する(アルル王国)。
- 934年 - 修道士エベルハルトによりスイス・アインジーデルンのベネディクト会修道院が創設される。
- 935年
- 935年頃
- 936年
- 937年
- 939年
940年代
[編集]→詳細は「940年代」を参照
- 940年 - 平将門が「新皇」を名乗り自立するが、平貞盛・藤原秀郷らに討たれ乱は鎮圧される。寛朝により成田山新勝寺が建立される。
- 940年頃 - イスラム教に改宗したサトゥク・ボグラ・ハンがベラサグンを都としてカラハン朝を建国。
- 941年 - 藤原純友の乱が終わる。藤原忠平が関白就任。
- 943年 - シーア派(イスマーイール派)に接近したサーマーン朝のナスル2世が廃位され息子のヌーフ1世が即位。
- 944年
- 東ローマ皇帝ロマノス1世レカペノスのエデッサ占領
- ロマノス1世レカペノスが廃位され、コンスタンティノス7世が正帝に復帰。
- この文人皇帝は学者を集め、自らも『帝国統治論』『儀式の書』他を執筆し、「マケドニア朝ルネサンス」の中心として活躍。
- 945年
- 946年
- 947年
950年代
[編集]→詳細は「950年代」を参照
- 950年 - 村上天皇が内裏歌合を催行。
- 950年頃
- 951年
- 村上天皇が『後撰集』の編纂を下命。市聖空也により西光寺(現在の六波羅蜜寺)が創建される。醍醐寺五重塔が完成する。
- 郭威が後漢を滅ぼし、後周を建国。
- 東フランク王オットー1世のイタリア遠征。ブルグントのアーデルハイトと結婚しイタリア王を兼任する。
- フランスのル・ピュイ司教ゴデスカルクによる最古のサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の記録がされる。
- 953年
- 954年
- 高平の戦いで、後周が北漢に勝利する。
- イングランド王エドレッドがヨーク王エリックを倒しデーンロウを征服。
- 東フランク王オットー1世が末弟のケルン大司教ブルーノをロートリンゲン公に封じる(帝国教会政策の始まり)。
- 『ハザール書簡』が交わされる( - 961年)。
- 後ウマイヤ朝ユダヤ人ワズィールのハスダイ・イブン・シャプルトとハザールのヨセフ・カガンとの間で交わされたもの。
- 955年
- 957年 - キエフ大公国王母オリガが東方正教会に帰依する。
- 958年
960年代
[編集]→詳細は「960年代」を参照
- 960年
- 960年代
- 961年
- 962年
- 963年
- 東ローマ皇帝ロマノス2世が死去、その皇后テオファノと結婚した将軍ニケフォロス2世が皇帝となる。
- アトスのアタナシオスが東ローマ皇帝ニケフォロス2世から勅許を得て、アトス山にメギスティ・ラヴラ修道院を建設する。
- 965年
- 966年
- ベトナムで丁部領により丁朝が成立。
- 性空が播磨国書写山に入山し、圓教寺(西国三十三所霊場の一つ)を創建。
- ノルマンディー公リシャール1世がベネディクト会の修道院をモン・サン=ミシェル島に建てる。
- 967年
- 968年
- 969年
970年代
[編集]→詳細は「970年代」を参照
- 970年
- 971年
- 宋が南漢を滅ぼす。
- シリストラの戦いで、東ローマ皇帝ヨハネス1世ツィミスケスがキエフ大公スヴャトスラフ1世の軍を撃破する。
- 972年
- 973年
- デカン高原でタイラ2世がラーシュトラクータ朝を倒しチャールキヤ朝を再興する。
- ファーティマ朝がイフリーキヤのマフディーヤからエジプトのカイロに遷都。
- クリュニー修道院院長マヨルスがアラブ人海賊により南フランスのフラクシネートゥムで拉致される。
- トゥールトゥールの戦いでプロヴァンス伯ギョーム1世が報復として南フランスからアラブ人を駆逐。
- 975年
- 976年
- 977年 - 兼明親王・昭平親王の皇籍復帰。藤原兼通死去、藤原頼忠の関白就任。
- 978年
- 979年 - 宋の太宗が北漢を滅ぼして中国統一する。続く高粱河の戦いで宋は遼に敗北し燕雲十六州の回復を断念。
980年代
[編集]→詳細は「980年代」を参照
- 980年
- マルギュ・シュル・シエール条約で、神聖ローマ皇帝オットー2世と西フランク王ロテールが講和。
- スウェーデン王エリク6世(勝利王)がウプサラでデーン系ヴァイキングに勝利する(フェリスヴェトリルの戦い)。
- 平安京の羅城門が倒壊し、以後は再建されず。
- 980年頃 - ドイツのエッセン大聖堂の「黄金の聖母子像」が作られる。
- 981年 - 西ガンガ朝のチャムンダラヤによりシュラバナベルゴーラにジャイナ教祖師ゴーマテーシュヴァラ(バーフバリ)の像が建てられる。
- 982年 - コロンナ岬の戦いで、神聖ローマ皇帝オットー2世軍がシチリア首長国に敗北する。
- 982年頃 - 慶滋保胤 が『池亭記』を執筆。
- 983年
- 984年
- 985年
- 986年
- 987年
- 988年
- 989年
- シャルー教会会議で最初の「神の平和」が布告される。
- コンスタンティノポリスで地震、ハギア・ソフィア大聖堂の西側ドームのアーチが崩落する。
- 「永祚の風」。
990年代
[編集]→詳細は「990年代」を参照
- 990年
- 991年
- 993年
- 995年
- 996年
- 997年
- ハンガリー大公ゲーザの死により息子イシュトヴァーン1世が後を継ぐ。
- 後ウマイヤ朝の大臣アル・マンスールがサンチアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂を破壊する。
- ノルウェー王オーラヴ1世がニーダロス(現トロンハイム)を都に定める。
- 北宋の太宗の命により王著が法帖『淳化閣帖』を編纂する。
- 奄美島人(高麗人説もあり)が対馬・壱岐に来襲(長徳の入寇)。
- 998年
- 999年
1000年代
[編集]→詳細は「1000年代」を参照
- 1000年
- 1000年頃 - アイスランド人のレイフ・エリクソンがヨーロッパ系としてはじめて北アメリカ大陸に到達。
- この地はヴィンランドと名づけられ、入植活動が行われる。ニューファンドランドのランス・オ・メドー遺跡がそれに相当するか。
架空のできごと
[編集]- 10世紀 - フランスのポワトゥー地方の領主としてリュジニャン家が登場するが、この家の始祖は下半身が蛇である妖精メリュジーヌを妻としていた。メリュジーヌの力により居城のリュジニャン城も建てられている(「メリュジーヌ伝説」)。
- 928年 - 旅の僧安珍が清姫に懸想され逃亡するも、紀州道成寺の大鐘の中で蛇体と化した清姫に焼き尽くされる(『大日本国法華験記』ほか「安珍・清姫伝説」)。
- 928年 - 五代十国後唐では国王と王妃の間は冷え切っていた。王妃に毒を盛る国王、皇太子と不倫する王妃、そしてそれをとりまく人々。この年の秋、城一面が菊の花で覆いつくされた中で催される豪奢な饗宴は、王家をめぐる陰謀と内乱の始まりだった(原作は曹禺の『雷雨』、張芸謀監督の映画「王妃の紋章」でも有名)。
- 930年 - 信貴山の命蓮が祈祷により、転輪聖王の金輪を転がす剣の護法童子を遣わし、醍醐天皇の病気を平癒させる(『信貴山縁起絵巻』)。
- 930年以前 - 皇子の身の上ながら盲目のため疎まれた蝉丸は父である醍醐天皇に捨てられ、逢坂山にて出家生活を営んでいた。そこへ同じく異形の者だということで捨てられ放浪していた姉の皇女逆髪が蝉丸のもとを訪れ、不幸の境遇を慰めあう(能『蝉丸』)。
- 939年以前 - 近江国三上山の百足が琵琶湖の龍神に依頼された藤原秀郷(俵藤太)によって討たれる(『太平記』ほか「百足退治伝説」)。
- 940年 - 平安京で晒し首にされた平将門の首級が関東を目指して舞い上がり空中を飛行し武蔵国豊嶋郡芝崎村(東京都千代田区大手町)に落下する(「平将門の首塚伝説」)。
- 940年以降 - 平将門の娘滝夜叉姫は一族郎党が滅ぼされた中にあって生き残り、貴船神社で復讐の成就を祈願し、下総の相馬の古御所に拠って朝廷転覆の謀略を巡らせることとなる(山東京伝の読本『善知鳥安方忠義伝』)。
- 956年 - 藤原師輔が内裏から退出して二条大宮「あははの辻」にて百鬼夜行に遭遇するも「尊勝陀羅尼」を誦して難を逃れる(『大鏡』)。
- 960年 - この年に興化軍莆田県湄州島の都巡林愿の六女として生まれた黙娘は、幼少の頃から才気煥発で信仰心も篤かった。16歳の頃に神通力を得て村人の病を治すなどの奇跡を起こし「通賢霊女」と呼ばれ崇められた。しかし28歳の時に官吏の父が海難に遭い行方知れずとなる。これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ、航海と商業の守護神媽祖となったという(「媽祖の伝説」)。
- 970年 - 信濃国戸隠の鬼女紅葉が勅命を受けた平維茂によって討たれる(能『紅葉狩』や小説『北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之傳全』ほか「紅葉伝説」)。
- 976年 - 比叡山の稚児であった梅若丸が人買いの信夫藤太により連れ出され、奥州に行く途上に隅田川の近辺で病に倒れ12歳で死去。その後その母が安否を尋ね隅田川に来た時に霊となった梅若丸が出現する(木母寺の伝承・能『隅田川』ほか松若丸伝説)。
- 980年以前 - 平安京の朱雀大路の南端にある羅生門はかねてから荒廃が著しく、楼門の二階には行き場のない遺体が放置されていた。ある若い下人がこの門を上がり、暗がりの中で死んだ女性の髪を梳く老婆に遭遇する(原典は『今昔物語集』、これをもとに芥川龍之介の小説『羅生門』が創られる)。
- 995年 - 丹波国大江山の酒呑童子が勅命を受けた源頼光と頼光四天王によって討たれる(「酒呑童子伝説」)。
- 996年以降 - 神聖ローマ皇帝オットー3世のもとへ無実の罪で斬首にされた夫の首を携え無念を晴らすべく伯爵夫人が現れる。夫人は皇帝の面前での神明裁判で熱せられた鉄塊を握りしめ身の潔白を訴え勝利を勝ち取る(「オットーの審判伝説」)。
- 999年以前 - オーリヤックのジェルベールが、コルドバのアラブ人から魔術を学びその技により悪魔と契約する。やがて彼はシルウェステル2世として教皇となる(「教皇シルヴェステル2世の悪魔伝説」)。
人物
[編集]東アジア
[編集]唐
[編集]- 崔胤(? - 904年) - 唐末の宰相・李茂貞から皇帝昭宗奪還のため朱全忠と結び宦官勢力を殲滅・後年朱全忠に殺される
- 裴枢(841年 - 905年) - 唐末の宰相・朱全忠により他の高官とともに白馬で虐殺される(白馬の禍)
- 李振(? - 923年) - 唐末五代の政治家・朱全忠の腹心・唐の昭宗を弑逆し朱全忠に白馬での高官殺害を進言する
- 李茂貞(856年 - 924年) - 唐末五代の節度使・皇帝昭宗を擁して鳳翔遷都を企てるも挫折・唐滅亡後は独立
五代十国
[編集]- 朱全忠(852年 - 912年) - 五代後梁の初代皇帝(太祖)(在位907年 - 912年)・門閥貴族を根絶し唐を滅ぼす
- 李存勗(885年 - 926年) - 五代後唐の初代皇帝(荘宗)(在位923年 - 926年)・李克用の息子・洛陽に遷都
- 李嗣源(926年 - 933年) - 五代後唐の第2代皇帝(明宗)(在位926年 - 933年)・李克用の義子・荘宗を倒し開封に遷都・馮道を登用
- 石敬瑭(892年 - 942年) - 五代後晋の初代皇帝(高祖)(在位936年 - 942年)・燕雲十六州を遼に割譲
- 劉知遠(895年 - 948年) - 五代後漢の初代皇帝(高祖)(在位947年 - 948年)・遼の華北撤退後に建国
- 郭威(904年 - 954年) - 五代後周の初代皇帝(太祖)(在位950年 - 954年)・後漢の隠帝を倒し建国
- 柴栄(921年 - 959年) - 五代後周の第2代皇帝(世宗)(在位954年 - 959年)・五代随一の名君・後周の法難(廃仏)を実施
- 王建(847年 - 918年) - 十国前蜀の初代皇帝(高祖)(在位907年 - 918年)・田令孜を倒して四川で独自勢力を築く
- 銭鏐(852年 - 932年) - 十国呉越の初代皇帝(太祖)(在位907年 - 932年)・銭塘や江海塘の修理や日本への遣使で有名
- 李煜(937年 - 978年) - 十国南唐の末代皇帝(後主)(在位961年 - 975年)・詞文学の大成者だが宋に国を滅ぼされる
- 布袋(? - 917年?) - 唐末五代の禅僧・本名は契此か・弥勒菩薩の化身とされ日本では七福神の一人とされる
- 張承業(845年 - 922年) - 唐末五代の宦官・唐滅亡後は李克用に近侍・李存勗の皇帝就任には反対し諫死する
- 楊凝式(873年 - 954年) - 五代十国時代の官僚・書家として「古意帖」「乞花帖」「韮花帖」がある
- 馮道(882年 - 954年) - 五代十国時代の政治家・宰相・五朝八姓十一君に仕えたことは毀誉褒貶が激しい
- 欧陽炯(896年 - 971年) - 十国前蜀後蜀から北宋の詞人・『花間集』序を執筆し「花間派」を代表する
- 董源(生没年不詳) - 十国南唐の宮廷画家・江南の風景を描いた山水画に優れ「瀟湘図巻」「夏山図巻」などの伝承作がある
- 巨然(生没年不詳) - 十国南唐から北宋の画家・董源の弟子・南唐滅亡後は開封に移る・「層巌叢樹図」などの伝承作がある
- 顧閎中(910年頃 - 980年) - 十国南唐の画家・李煜に命じられ描いた「韓煕載夜宴図」は南唐の爛熟を示す画として名高い
北宋
[編集]- 趙匡胤(927年 - 976年) - 北宋の初代皇帝(太祖)(在位960年 - 976年)・陳橋の変で皇帝に擁立される
- 趙匡義(939年 - 997年) - 北宋の第2代皇帝(太宗)(在位976年 - 997年)・北漢を討ち中華を再統一
- 趙普(922年 - 992年) - 北宋の政治家・宰相・趙匡胤に仕え陳橋の変での活躍で北宋の建国に貢献した
- 李昉(925年 - 996年) - 北宋の政治家・宰相・太宗に命じられ『太平広記』『太平御覧』『文苑英華』を編纂
- 陳希夷(? - 984年/989年) - 五代宋初の隠士・儒仏道三教の調和を説く・紫微斗数や河洛理数などの占術を創始したか
- 楊業(? - 986年) - 北漢から北宋に帰順した武将・遼との戦いに従事・『楊家将演義』では楊一族の始祖として活躍
契丹
[編集]- 耶律阿保機(872年 - 926年) - 契丹(遼)の初代皇帝(太祖)(可汗在位907年 - 皇帝在位916年 - 926年)・渤海を滅ぼす
- 月里朶(879年 - 953年) - 契丹(遼)の初代皇后(淳欽述律皇后)(皇后在位907年 - 926年・皇太后在位926年 - 953年)・夫太祖の建国と次男太宗の治世を助ける
- 耶律突欲(899年 - 936年) - 契丹(遼)の皇太子・東丹国国王(在位926年 - 930年)・父太祖、弟太宗と共に渤海を滅ぼす
- 耶律堯骨(902年 - 947年) - 契丹(遼)の第2代皇帝(太宗)(在位927年 - 947年)・後晋を滅ぼす
- 耶律兀欲(919年 - 951年) - 契丹(遼)の第3代皇帝(世宗)(在位947年 - 951年)・中央集権化の改革を行う
- 耶律述律(931年 - 969年) - 契丹(遼)の第4代皇帝(穆宗)(在位951年 - 969年)・従兄世宗の一族を粛正
- 耶律明扆(948年 - 982年) - 契丹(遼)の第5代皇帝(景宗)(在位969年 - 982年)・太原の沙陀族政権北漢と結び配下とする
- 耶律文殊奴(972年 - 1031年) - 契丹(遼)の第6代皇帝(聖宗)(在位982年 - 1031年)・北宋と澶淵の盟を結び契丹の全盛期を現出
朝鮮
[編集]日本
[編集]- 菅原道真(845年 - 903年) - 公卿・右大臣・昌泰の変で失脚・怨霊伝説から天満宮の祭神とされる
- 三善清行(847年 - 919年) - 公卿・参議・漢学者・『延喜格式』の編纂に参加・『意見封事十二箇条』でも有名
- 藤原時平(871年 - 909年) - 公卿・左大臣・昌泰の変の首謀者・最初の荘園整理令を行い延喜の治の端緒となる
- 藤原忠平(880年 - 949年) - 公卿・摂政・関白・太政大臣・藤原時平や藤原仲平の弟・延喜の治を指導
- 藤原利仁(生没年不詳) - 武将・鎮守府将軍・武蔵守ほか各地の地方官を歴任・『今昔物語集』の説話や伝説で有名
- 紀貫之(872年? - 945年) - 官人・木工権頭・『土佐日記』作者・『古今和歌集』選者
- 平将門(? - 940年) - 武将・承平天慶の乱では関東で「新皇」を名乗る・怨霊伝説から神田明神などの祭神とされる
- 藤原秀郷(生没年不詳) - 武将・鎮守府将軍・平将門追討の功績で有名・近江三上山の百足退治伝説でも知られる。
- 小野好古(884年 - 968年) - 公卿・参議・大宰大弐・追捕使長官として藤原純友を追討
- 藤原純友(893年? - 941年) - 官人・伊予掾・承平天慶の乱では瀬戸内海で海賊を率い国府を襲う
- 小野道風(894年 - 967年) - 官人・内蔵頭・書家で「三蹟」の一人・「智証大師諡号勅書」などが残る
- 藤原実頼(900年 - 970年) - 公卿・摂政・関白・太政大臣・北家小野宮流の祖・天暦の治を指導・安和の変の首謀者か
- 空也(903年 - 972年) - 僧侶・浄土教の先駆者として「市聖」と呼ばれる・六波羅蜜寺開山
- 藤原師輔(909年 - 960年) - 公卿・右大臣(九条右大臣)・北家九条流の祖・天暦の治を指導
- 性空(910年 - 1007年) - 天台宗の僧・書写上人・播磨国書写山円教寺開山で花山法皇の尊崇を受ける
- 源順(911年 - 983年) - 学者・歌人・日本最古の分類体辞典『和名類聚抄』を編纂・梨壺の五人の一人
- 丹波康頼(912年 - 995年) - 医師・日本最古の医学書『医心方』を編纂
- 良源(慈恵大師)(912年 - 985年) - 天台座主・通称は元三大師・比叡山延暦寺の中興の祖
- 源満仲(912年 - 997年) - 武将・鎮守府将軍・摂津源氏/大和源氏/河内源氏の祖
- 源高明(914年 - 983年) - 公卿・左大臣(西宮左大臣)・安和の変で失脚・有職故実の書『西宮記』を残す
- 寛朝(916年 - 998年) - 真言宗の僧侶(大僧正)・東寺長者・京都遍照寺開山・平将門調伏で成田山新勝寺を開く
- 源博雅(918年 - 980年) - 公卿(皇后宮権大夫)・雅楽家・「博雅三位」と呼ばれる名手で笛や琵琶にまつわる伝説も多い
- 安倍晴明(921年 - 1005年) - 陰陽師・天文博士・神秘的な人物として伝説化される
- 藤原兼家(929年 - 990年) - 公卿・摂政・関白・太政大臣・藤原道長の父・寛和の変で一条天皇を擁立
- 慶滋保胤(933年以後 - 1002年) - 文人・儒学者で『池亭記』・『日本往生極楽記』の著者
- 藤原道綱母(936年? - 995年) - 藤原兼家の妻の一人・藤原倫寧の娘・『蜻蛉日記』を残す
- 奝然(938年 - 1016年) - 入宋僧・宋の太宗に引見される・京都清涼寺の開祖
- 源信(942年 - 1017年) - 天台宗の僧侶・良源の弟子・『往生要集』著者
- 藤原佐理(944年 - 998年) - 公卿・参議・書家で「三蹟」の一人・「詩懐紙」「離洛帖」などが残る
- 源頼光(948年 - 1021年) - 武将・藤原摂関家の家司・大江山酒呑童子征伐伝説で知られる
- 藤原道隆(953年 - 995年) - 公卿・摂政・関白(中関白)・藤原兼家の長男・伊周や定子の父
- 藤原道長(966年 - 1027年) - 公卿・摂政・内覧・通称は御堂関白・藤原兼家の四男・摂関政治の最盛期
- 清少納言(966年頃 - 1025年?) - 一条天皇の中宮定子の女房・『枕草子』作者
イスラム世界
[編集]サーマーン朝
[編集]- イスマーイール・サーマーニー(? - 907年) - サーマーン朝のアミール(在位892年 - 907年)・サーマーン朝の全盛期
カラハン朝
[編集]- サトゥク・ボグラ・ハン(? - 993年) - カラハン朝の君主(在位920年 - 958年)・テュルク系民族の集団改宗を行ったという
ガズナ朝
[編集]ブワイフ朝
[編集]ファーティマ朝
[編集]- アブー・アブドゥッラー(? - 911年/912年) - マグリブのイスマーイール派の教宣員・ファーティマ朝建国の功臣
- ウバイドゥッラー(873年 - 934年) - ファーティマ朝の初代カリフ(在位909年 - 934年)・アグラブ朝を倒しチュニジアに建国
- ムイッズ(932年 - 975年) - ファーティマ朝の第4代カリフ(在位953年 - 975年)・イフリーキヤからカイロに遷都
- ジャウハル(? - 992年) - ファーティマ朝の将軍・カリフのムイッズに仕える・イフシード朝を倒しエジプトにカイロを建設
- アズィーズ(955年 - 996年) - ファーティマ朝の第5代カリフ(在位975年 - 996年)・アズハルモスク付属のアズハル学院を創設
後ウマイヤ朝
[編集]- アブド・アッラフマーン3世(889年 - 961年) - 後ウマイヤ朝の初代カリフ(在位929年 - 961年)・王朝の最盛期・ザフラー宮殿を造営
- ハカム2世(914年 - 976年) - 後ウマイヤ朝の第2代カリフ(在位961年 - 976年)・首都コルドバの図書館に約40万冊の書物を蒐集した
- マンスール(938年 - 1002年) - 後ウマイヤ朝の大臣・カリフのヒシャーム2世に代わり実権を握る・キリスト教諸国に大勝
学者・詩人
[編集]- ルーダキー(850年代初頭 - 940年頃) - サーマーン朝のペルシア語詩人・ペルシア詩の確立者であり『カリーラとディムナ』他がある
- アル=ハッラージュ(857年/858年 - 922年) - ペルシアのイスラム神秘主義者・神人合一の神秘体験を説き異端として処刑される
- アル・ラーズィー(865年 - 925年) - ペルシアの錬金術師・化学者・哲学者・医師・四体液説の誤りを証明
- ファーラービー(870年? - 950年) - ファーラーブ出身のイスラム哲学者・数学者・アリストテレスに次ぐ「第二の師」とも呼ばれる
- アシュアリー(873年 - 935年) - イスラム神学者・ムウタズィラ学派ジュッバーイーの弟子だったが離反しアシュアリー学派の祖となる
- サアディア・ガオン(882年/892年 - 942年) - バビロニアのスーラにあるユダヤ学院長・カライ派を論駁し旧約聖書のアラビア語訳を完成
- イブン・ファドラーン(活躍時期921年 - 922年) - アッバース朝の使節として各地を旅行し『ヴォルガ・ブルガール旅行記』を残す
- マスウーディー(896年 - 956年) - バグダード出身の歴史地理学者・「アラブのヘロドトス」・著作に『黄金の牧場と宝石の鉱山』がある
- アブル・ファラジュ(897年 - 967年)- エスファハーン生身の学者・アラブ人の詩歌の記録をまとめた『歌の書(キターブ・アル・アガニ)』を残す
- アブド・アル・ラフマン・アル・スーフィー(903年 - 986年) - ブワイフ朝で活躍した天文学者・『星座の書』『アストロラーベの使用法』がある
- イブン・ハウカル(? - 978年頃) - ニシビス出身の地理学者・インドからアフリカまで遍歴・著書に『大地の姿』(『諸道諸国志』)がある
- アル・ムタナッビー(915年 - 965年) - クーファ出身のアラビア語詩人・「預言者を僭称する者」の別名あり・華麗な作品が多いが殺害される
- ブズルク・ブン・シャフリヤール(10世紀後半) - イスラム航海者・インド洋の航海者に伝わる説話を『インドの驚異譚』でまとめる
- アブ・マンスール・ムアファック(10世紀後半) - 薬事学者・ペルシアやインドを旅行し『治療の正しい諸性質の基礎の書』を執筆
- ダキーキー(930年/940年 - 978年頃) - サーマーン朝で活躍したペルシア語詩人・フィルドウスィーに先行し影響を与える
- イブン・ナディーム(932年頃 - 990年) - バグダードの書籍商・当時この地にあったアラビア語書籍の目録『フィフリスト』を著す
- フェルドウスィー(934年 - 1025年) - サーマーン朝・ガズナ朝で活躍したペルシア語詩人・イラン民族叙事詩『シャー・ナーメ』を書く
- タヌーヒー(939年 - 994年) - バスラ出身の法官・著作家・イスラム世界の説話を集めた『座談の糧』で知られる
- イブン・スィーナー(980年 - 1037年) - ブハラ出身の哲学者・科学者・医師としては『医学典範』『治癒の書』がある
南アジア
[編集]- チャムンダラヤ(940年 - 989年) - インドの西ガンガ朝の政治家・軍人・建築家・詩人・シュラバナベルゴラのゴーマティーシュヴァラ像を建立
- タイラ2世(? - 997年) - インドの後期チャールキヤ朝の初代の君主(在位973年 - 997年)・ラーシュトラクータ朝を滅ぼす
- ラージャラージャ1世(? - 1014年頃) - インドのチョーラ朝の君主(在位985年 - 1014年頃)・チョーラ朝最盛期の王
- ゴーラクシャナータ(10世紀) - インド北部の宗教家・「ハタ・ヨーガ」の創始者で『シッダ・シッダーンタ・パダッティ』の作者とされる
キリスト教世界
[編集]フランス王国
[編集]- クリュニーのベルノー(850年 - 927年) - クリュニー修道院初代院長・アキテーヌ公ギヨーム1世の援助で修道院を建立
- ロロ(徒歩王)(860年頃 - 933年) - ノルマン人の族長・初代ノルマンディー公(在位911年 - 933年)
- クリュニーのオド(879年 - 942年) - クリュニー修道院2代院長・教会刷新運動を進め俗界権力の容喙を拒絶
- ゴルツェのヨハネス(900年 - 974年) - ゴルツェ修道院院長・修道院改革をロレーヌ地方からドイツに広げる
- ユーグ・カペー(941年 - 996年) - フランスの初代国王・カペー朝の祖(在位987年 - 996年)・神聖ローマ皇帝オットー1世の甥
- ロベール2世(敬虔王)(972年 - 1031年) - フランス国王(在位996年 - 1031年)・ベルトとの結婚で教皇から破門される
神聖ローマ帝国
[編集]- ハインリヒ1世(捕鳥王)(876年 - 936年) - ザクセン朝の祖・ドイツ(東フランク)王(在位919年 - 936年)
- オットー1世(大帝)(912年 - 973年) - ザクセン朝の東フランク王・初代神聖ローマ皇帝(在位962年 - 973年)・マジャール人を撃退
- ブルグントのアーデルハイト(931年/932年 - 999年) - 神聖ローマ皇帝オットー1世の皇后・息子夫妻の死後はオットー3世の摂政となる
- オットー2世(955年 - 983年) - ザクセン朝の神聖ローマ皇帝(在位973年 - 983年)・東ローマ皇女テオファヌと結婚
- テオファヌ(960年 - 991年) - 神聖ローマ皇帝オットー2世の皇后・東ローマ皇帝の姪・夫君死後は息子のオットー3世の摂政となる
- オットー3世(980年 - 1002年) - ザクセン朝の神聖ローマ皇帝(在位996年 - 1002年)・古代ローマへの憧憬からイタリア遠征を行う
- ロスヴィータ(935年頃 - 973年頃) - ドイツのベネディクト会律修修女・オットー朝ルネサンスを代表するラテン語劇作家・詩人
イタリア
[編集]- ベレンガーリオ1世(850年? – 924年) - フリウリ辺境伯・イタリア王・ガリリャーノ川の戦いで勝利し西ローマ皇帝(在位915年 - 924年)となる
- マロツィア(890年頃 - 932年/937年) - ローマの女性政治家・その教皇庁支配はポルノクラシー(娼婦政治)と呼ばれる
- クレモナのリウュートプランド(922年頃 - 972年) - クレモナ司教・東ローマ帝国の宮廷に派遣され『コンスタンティノポリス使節記』を残す
- ヨハネス12世(937年 - 964年) - ローマ教皇(在位955年 - 964年)・オットー1世を神聖ローマ皇帝として戴冠
- シルウェステル2世(950年? - 1003年) - ローマ教皇(在位999年 - 1003年)・オットー3世の家庭教師・数学者・天文学者でもある
- ウーゴ(953年/954年 - 1001年)・トスカーナ辺境伯(在位 969年 - 1001年)・統治機構を改変した公正な政治は後世のダンテの称賛を受けた
東ローマ帝国
[編集]- レオーン6世(ソフォス)(866年 - 912年) - 東ローマ帝国マケドニア朝の皇帝(在位886年 - 912年)・「バシリカ法典」編纂や四婚問題で知られる
- コンスタンティノス・ケファラス(10世紀初頭) - 東ローマ帝国の文人・古代からの詩文を集めた『ギリシア詞華集(パラティン詞華集)』を編纂する
- コンスタンティノス7世(ポルフュロゲネトス)(905年? - 959年) - 東ローマ帝国マケドニア朝の皇帝(在位913年 - 920年、944年 - 959年)
- ニケフォロス2世フォカス(913年 - 969年) - 東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位963年 - 969年)・シリアのアンティオキアを奪回
- ヨハネス1世ツィミスケス(925年 - 976年) - 東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位969年 - 976年)・先帝に続き東方領土を拡大
- テオファノ(941年頃 - ?) - 東ローマ皇帝ロマノス2世の皇后・続く皇帝ニケフォロス2世の皇后・東ローマ帝国史上最大の悪女とも言われる
- バシレイオス2世(ブルガロクトノス)(958年 - 1025年) - 東ローマ帝国マケドニア朝最盛期の皇帝(在位976年 - 1025年)
- アトスのアタナシオス(920年頃 - 1000年頃) - 東ローマ帝国の修道士・アトス山にメギスティス・ラヴラ修道院を建立し聖地の名を高める
- シメオン・メタフラテス(10世紀後半) - 東ローマ帝国の神学者・『聖人伝(メノロギオン)』ほか祈祷文など多くの著作で知られる
東欧
[編集]- シメオン1世(864年 - 927年) - ブルガリア国王(在位893年 - 913年)・ブルガリア皇帝(在位913年 - 927年)
- ボゴミル(10世紀前半) - ブルガリア支配下の西マケドニアの司祭・異端パウロ派の影響から善悪二元論のボゴミル派を創設
- トミスラヴ(? - 928年) - クロアチアの初代国王(925年 - 928年)・マジャール人やフランク人を抑えて独立を達成する
- オリガ(? - 969年) - キエフ大公国第2代大公イーゴリ1世の妃・第3代大公スヴャトスラフ1世の摂政・キリスト教(東方正教会)を受容
- ヴァーツラフ1世(907年 - 935年) - プシェミスル朝のボヘミア公(在位921年 - 935年)・都プラハに聖ヴィート大聖堂を建立
- ミェシュコ1世(935年? - 992年) - ピャスト朝の初代ポーランド国王(在位963年 - 992年)・キリスト教(カトリック教会)を受容
- スヴャトスラフ1世(942年頃 - 972年) - キエフ大公(在位945年 - 972年)・ハザール王国を滅ぼし、キエフ・ルーシの最大版図を築く
- ナレクのグレゴリオス(951年 - 1003年/1010年) - アルメニアの修道士・神学者・詩文に優れ『哀歌』の名で知られる祈祷書を執筆
- ウラディミル1世(聖公)(956年 - 1015年) - キエフ大公(在位980年 - 1015年)・キリスト教(東方正教会)を受容
- イシュトヴァーン1世(975年 - 1038年) - ハンガリーの建国者(在位997年 - 1038年)・キリスト教(カトリック教会)を受容
- プラハのアダルベルト(956年 - 997年) - プラハ司教・東欧各地(ボヘミア・ハンガリー・ポーランド)に宣教・殉教して守護聖人とされる
北欧
[編集]- ゴーム(老王)(? - 958年?) - デンマーク国王(在位936年? - 985年?)・王妃との名を刻んだイェリング墳墓群の石碑で有名
- ハーラル1世(青歯王)(? - 986年?) - デンマーク国王(在位958年? - 985年?)・キリスト教(カトリック教会)を受容
- オーラヴ1世(960年代 - 1000年) - ノルウェー国王(在位995年 - 1000年)・キリスト教(カトリック教会)を受容
アイスランド
[編集]- 赤毛のエイリーク(950年頃 - 1003年頃) - ノルウェー生まれでアイスランドで活躍した航海者・グリーンランドを発見か
- レイフ・エリクソン (970年頃 - 1020年頃) - アイスランド生まれのノルマン人航海者・アメリカ大陸を発見か・エイリークの息子
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ “第60代・醍醐天皇の皇位継承と昌泰の変”. WEB歴史街道 (2020年5月18日). 2020年12月29日閲覧。
参考文献
[編集]- ヴァレリー・ハンセン著 赤根洋子訳『西暦一〇〇〇年 グローバリゼーションの誕生(The Year 1000: When Explorers Connected the World—and Globalization Began )』 文藝春秋社、2021年。ISBN 978-4163913704
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、10世紀に関するカテゴリがあります。