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サブク・ティギーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サブク・ティギーン
سبکتگین
ガズナ朝第4代アミール
在位 977年4月20日 - 997年8月5日

全名 アブー・マンスール・ナスルッディーン・サブク・ティギーン
ابو منصور سبکتگین
出生 942年
死去 997年8月5日(54-55歳)
バルフ
配偶者 アルプテギーンの娘
子女 イスマーイール
マフムード
アブル・ムザッファル
ユースフ
家名 サブク・ティギーン家
王朝 ガズナ朝
父親 カラ・バジカム
宗教 イスラム教スンナ派ハナフィー派
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サブク・ティギーンペルシア語 : سبکتگین942年頃 - 997年8月5日)は、ガズナ朝の第4代アミール(在位:977年 - 997年)。ガズナ朝の創始者アルプテギーンにグラーム(軍人奴隷)として仕えた。

彼の治世以後のガズナ朝は、世襲制の王朝となり、事実上のガズナ朝の創始者とされている[1]

生涯

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サブク・ティギーンは、ホラーサーン地方の総督に任命されたアルプテギーンによって購入された[2]セルジューク朝ニザームルムルクが著した『統治の書』は、サブク・ティギーンは購入されてから3日後に天幕長に抜擢されたと伝えている[2]。サブク・ティギーンは頭角を現していき、18歳のときに200人を指揮する兵隊長の地位にあった[2]。作法、狩り、ポロ弓術などでサブク・ティギーンはアルプテギーンの流儀に従い、アルプテギーンの民衆や部下に寛大な態度で接する点も見習った[2]

ボリティギーンの在位中にガズナの元領主ラウイークが反乱を起こした時、サブク・ティギーンが反乱を鎮圧した。977年にサブク・ティギーンはガズナ朝の君主の地位を継いだ。

即位後、インドパンジャーブ地方に侵入し、ラージプートを中心とするインド諸王の連合軍を撃破、インド北方の要衝であるペシャーワルを占領した。サーマーン朝支配下のトランスオクシアナで起きた反乱の鎮圧を援助し、994年にサーマーン朝のヌーフ2世英語版よりホラーサーン地方の総督に任命された[3]。サブク・ティギーンとサーマーン朝の主従関係は名ばかりのものであり、既にサブク・ティギーンはサーマーン朝に優る実力を有していた[3]

サブク・ティギーンは子のイスマーイールを後継者に指名して没するが、イスマーイールはサブク・ティギーンの長子マフムードによって廃位される[4]

脚注

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  1. ^ 清水宏祐「イラン世界の変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編、新版世界各国史、山川出版社、2002年8月)、80頁
  2. ^ a b c d 勝藤猛「アルプ・テギン」『世界伝記大事典 世界編』1巻、263頁
  3. ^ a b 佐藤「ガズニー朝」『アジア歴史事典』2巻、173-174頁
  4. ^ ブライヤン.K.グプタ「マフムード」『世界伝記大事典 世界編』10巻収録(桑原武夫編、ほるぷ出版、1981年6月)、417頁

参考文献

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先代
ボリティギーン
ガズナ朝君主
977年 - 997年/98年
次代
イスマーイール