耶律阿保機
太祖 耶律阿保機 | |
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遼 | |
初代皇帝 | |
王朝 | 遼 |
在位期間 |
天祐4年1月13日 - 天顕元年7月27日 (907年2月27日 - 926年9月6日) |
都城 | 上京臨潢府 |
姓・諱 |
耶律億 劉億(漢名) |
字 |
阿保機 安巴堅(『旧五代史』) |
小字 | 啜里只 |
諡号 | 大聖大明神烈天皇帝 |
廟号 | 太祖 |
生年 | 咸通13年(872年) |
没年 |
天顕元年7月27日 (926年9月6日) |
父 | 耶律撒剌的 |
母 | 宣簡蕭皇后 |
后妃 | 淳欽述律皇后 |
陵墓 | 祖陵 |
年号 |
神冊 : 916年 - 922年 天賛 : 922年 - 926年 天顕 : 926年 |
耶律 阿保機(やりつ あぼき、Yelü Abaoji)は、遼の建国者。「阿保機」とはあだ名「アブーチ」(掠奪者)の音訳とされる。
生涯
[編集]出生
[編集]契丹(キタイ)族・耶律氏(ヤルート、Yalut)の迭剌(てつら)部出身で、耶律撒剌的と宣簡皇后蕭氏のあいだの長男として咸通13年(872年)に生まれた。耶律氏は発音によっては移剌(イラ)とも呼ばれる。また天皇帝、天皇王の称号も持っていた。杉山正明は、耶律阿保機が「天皇帝」を自称したことを、契丹が中国皇帝の称号を受け入れたということではなく、遊牧民族の称号「天可汗」(Tengri Khagan)の漢訳だろうと主張している[1]。
伝説によれば母が夢により受胎され、誕生の際には室内に不思議な光と香りに包まれ、生まれながらに3歳児の体格をして這い出したと伝えられる。
耶律阿保機は初めは遙輦氏の痕徳菫可汗に仕えていた。
天祐3年(906年)に痕徳菫可汗が没すると、天祐4年(907年)正月に耶律阿保機は契丹の可汗に即位した(第1次即位)。
その後、耶律阿保機は室韋部・越兀部・烏古部などの奚諸部を討って、耶律氏による支配体制を確立。北宰相の蕭轄剌・南宰相の耶律欧里思が群臣と共に天皇帝号を奉じて「皇帝」となる。
天祐8年(911年)から諸弟の反乱が続発するが、耶律阿保機は剌葛・迭剌・寅底石・安端などを征伐して、その反乱者たちを処刑した。
契丹の建国
[編集]神冊元年2月11日(916年3月17日)、耶律阿保機は新たに契丹可汗に即位し(第2次即位)、その時、国号を「キタイ=契丹」とし、元号を神冊と定め、キタイ人の王朝を建国した。
太祖(耶律阿保機)は北宰相に蕭轄剌、北院夷離菫に耶律斜涅赤、南府宰相に耶律蘇、南院夷離菫に耶律迭里を任じ、国家運営を進めていく事になった。
その後、太祖(耶律阿保機)は西の突厥・吐谷渾・小蕃・阻卜・タングート・ウイグル・沙陀諸部、北の女真、南の中国10余州、東の渤海を討って服属・占領、長男の耶律突欲を封じて「東丹国」を作った。しかし、太祖(耶律阿保機)は、渤海との戦役からの帰路の途中で病没した。
太祖(耶律阿保機)は政治面で大きな功績を残した。契丹の国では、遊牧民と定住民を別の機構で統治する二重統治体制を作り、遊牧所領内にも多くの都市を建設した。また、遊牧国家でありながら農耕国家の機構を取り入れ、漢人を積極登用し、匈奴以来の遊牧国家機構をより強固なものとした。
また、文化面では、漢文化を積極的に吸収し、神冊5年(920年)には大小2種からなる契丹民族独自の文字「契丹文字」を制定した。
論争
[編集]天賛3年6月18日(924年7月22日)、耶律阿保機は、皇后・皇太子・大元帥・宰相・諸部の長を召集して、「3年後、丙戌年の初秋になると、必ず帰着する所があるだろう」と述べていた[2]。実際に3年後の丙戌年(926年)初秋7月26日(9月6日)、渤海遠征を終えて帰還中に扶余府で死んだ。つまり、耶律阿保機は自らの死期を正確に予知していた。北京大学教授の羅新は、耶律阿保機は、おそらく自殺したのではなかろうか、と推測している[1]。
后妃
[編集]- 淳欽述律皇后(月里朶=ユリド)
- 宮人蕭氏
子女
[編集]子
[編集]女
[編集]- 耶律質古
脚注
[編集]- ^ a b 蔡偉傑『從馬可波羅到馬戛爾尼:蒙古時代以降的內亞與中國』八旗文化、2020年9月2日、29頁。ISBN 9789865524241。
- ^ 六月乙酉,召皇后、皇太子、大元帥及二宰相、諸部頭等詔曰;「上天降監,惠及烝民。聖主明王,萬載一遇。朕既上承天命,下統群生,每有征行,皆奉天意。是以機謀在己,取捨如神,國令既行,人情大附。舛訛歸正,遐邇無愆。可謂大含溟海,安納泰山矣!自我國之經營,為群方之父母。憲章斯在,胤嗣何憂? 升降有期,去來在我。良籌聖會,自有契於天人;眾國群王,豈可化其凡骨? 三年之後,歲在丙戌,時值初秋,必有歸處。然未終兩事,豈負親誠? 日月非遙,戒嚴是速。」聞詔者皆驚懼,莫識其意。是日,大舉征吐渾,党項,阻卜等部。詔皇太子監國,大元帥堯骨從行。 — 遼史、巻二、本紀第二
伝記資料
[編集]- 『遼史』巻一・本紀第一
- 『遼史』巻二・本紀第二