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ビルヒリオ・バルコ・バルガス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ビルヒリオ・バルコ・バルガス
1991年のバルコ
第27代コロンビア共和国大統領
任期
1986年8月7日 (1986-08-07) – 1990年8月7日 (1990-8-7)
前任者ベリサリオ・ベタンクール
後任者セサル・ガビリア
第20代駐英コロンビア大使
任期
1990年11月9日 (1990-11-09) – 1992年
大統領セサル・ガビリア
前任者フェルナンド・セペダ・ウロア
後任者ルイス・プリエト・オカンポ
第18代駐米コロンビア大使
任期
1977年6月24日 (1977-06-24) – 1980年12月11日 (1980-12-11)
大統領アルフォンソ・ロペス・ミチェルセン
前任者フリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ
後任者ホルヘ・マリオ・エストマン・ロブレド
第6代ボゴタ市長
任期
1966年 – 1969年
大統領カルロス・ジェラス・レストレポ
前任者ホルヘ・ガイタン・コルテス
後任者エミリオ・ウレア・デルガド
第15代コロンビア共和国農業大臣
任期
1963年4月23日 (1963-04-23) – 1963年10月6日 (1963-10-6)
大統領ギジェルモ・レオン・バレンシア
前任者コルネリオ・レジェス・レジェス
後任者グスタボ・バルカサル・モンソン
第40代コロンビア共和国財務大臣
任期
1962年8月7日 (1962-08-07) – 1962年9月5日 (1962-9-5)
大統領ギジェルモ・レオン・バレンシア
前任者ホルヘ・メヒア・パラシオ
後任者カルロス・サンス・デ・サンタマリア
第8代駐英コロンビア大使
任期
1961年6月16日 (1961-06-16) – 1962年
大統領アルベルト・ジェラス・カマルゴ
前任者アルフォンソ・ロペス・プマレホ
後任者アルフレド・アラウホ・グラウ
第52代コロンビア共和国公共事業大臣
任期
1958年8月7日 (1958-08-07) – 1960年11月9日 (1960-11-9)
大統領アルベルト・ジェラス・カマルゴ
前任者ロベルト・サラザール・ゴメス
後任者ミサエル・パストラーナ・ボレロ
個人情報
生誕ビルヒリオ・バルコ・バルガス
(1921-09-17) 1921年9月17日
ノルテ・デ・サンタンデール県ククタ
死没1997年5月20日(1997-05-20)(75歳没)
ボゴタ
墓地ボゴタ中央墓地
国籍コロンビア人
政党コロンビア自由党
配偶者カロライナ・イサクソン・プロクタ
子供
  • マリア・カロリナ・バルコ・イサクソン
  • フリオ・バルコ・イサクソン
  • ディアナ・バルコ・イサクソン
  • ビルヒリオ・バルコ・イサクソン
出身校
専業土木技師
公式サイトOfficial website

ビルヒリオ・バルコ・バルガス (Virgilio Barco Vargas、1921年9月17日1997年5月20日) は、コロンビア政治家および技術者であり、同国の第27代大統領を務めた。

生い立ち

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バルコは1921年9月17日、コロンビアのノルテ・デ・サンタンデール県の県都ククタにおいて、父親のホルヘ・エンリケ・バルコ・マルドナドと母親のジュリエッタ・バルガス・デュランの間に生まれた。彼はコロンビア国立大学マサチューセッツ工科大学(MIT)で土木工学を学び、1943年に卒業した[1]。その後、コロンビアの下院議員に選出されたが、自由党と保守党の内戦で1950年、米国に亡命した。彼はMITで経済学の修士号を取得し、1952年、ノーベル賞受賞者のロバート・ソローポール・サミュエルソンの下で学んだ。1954年、彼はボストン大学で経済学の博士号を取得した[2]

政治キャリア

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バルコは1954年、コロンビアに帰国し、1948年から続いた自由党と保守党の内戦を終わらせるための政治協定である国民戦線(FN)の創設に尽力した。彼は1958年、上院議員に選出され、1961年、駐英大使になるため辞任し、1962年にコロンビアに戻った。その後、1974年まで世界銀行の理事を務めた。1977年から1980年まで駐米大使を歴任した。

大統領職

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1986年、バルコは58%の得票率でコロンビア大統領に選出された。彼は反貧困プログラムを支持し、コロンビア革命軍(FARC)などの左翼ゲリラとの対話を進める一方で、メデジン・カルテルなどの麻薬カルテルとの対決姿勢を鮮明にし、1989年8月18日、大統領候補だったルイス・カルロス・ガラン・サルミエント暗殺されるとメデジン・カルテルに宣戦布告をして麻薬戦争を進めた。彼は国際社会では人気があったが、彼の反麻薬キャンペーンが暴力を増加させたため、国内での人気は伸び悩んだ。彼は当初、保護貿易的な経済政策を採ったため、国の経済は疲弊した。その2年後、彼は新自由主義的な経済政策に転換し、経済開放プログラムが始まった。これにより、コロンビアの市場が世界に開放され、国の経済が再活性化された。彼は1990年まで4年の任期を務めた。1989年に来日している。

辞職後

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1990年に大統領職を辞任すると、1992年まで再び駐英大使を務めた。バルコはアルツハイマーと診断され、1997年5月20日、コロンビアの首都ボゴタで75歳で亡くなった。彼の遺体はボゴタ中央墓地に葬られた。

参考文献

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  1. ^ Virgilio Barco Vargas”. Presidency of the Republic of Colombia (June 2013). 2013年10月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月13日閲覧。
  2. ^ Virgilio Barco Vargas”. 2023年3月19日閲覧。

外部リンク

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