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ピエロ・カマライ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ピエロ・カラマイ
Piero Calamai
生誕 (1897-12-25) 1897年12月25日
死没 1972年4月7日(1972-04-07)(74歳没)
職業 海軍軍人、船長
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ピエロ・カラマイ(Piero Calamai、1897年12月25日 - 1972年4月7日)は、イタリアの航海士、元海軍軍人である。1956年7月に客船「ストックホルム英語版」と衝突して沈没した客船「アンドレア・ドーリア」の船長だった[1][2]

生涯

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カラマイは海軍軍人の家系に生まれた。弟のマルコはイタリア海軍の少将まで昇進し、海軍兵学校を指揮していたが、1957年に海で行方不明になった[3]。父親のオレステスは、イタリア初の海事雑誌"La Marina Mercantile"(商船船団)を創刊した。

カラマイは、1916年7月に海軍少尉に任官された。第一次世界大戦では勇敢さが評価されて武功銀勲章英語版を受章し、補佐中佐として参戦した第二次世界大戦では2度目の武功銀勲章を受章した。

第二次大戦後は海軍を退役して航海士協会に所属し、航海士として27隻の船を指揮した。1953年に就航した「アンドレア・ドーリア」の船長に就任したが、1956年7月25日、ニューヨークへ向かう途中で客船「ストックホルム」に衝突され、沈没した。衝突によって死亡した46人を除く、「アンドレア・ドーリア」の乗客乗員1,660人は避難したが、カマライは事故の責任を償うとして、船と共に沈むことを決意した。部下の説得により、最終的にカマライは救命ボートに乗ったが、これを最後に船乗りを引退した[4][5]

引退後、友人の一人に「以前は海が好きだった。今は嫌いだ」と語った。カラマイは1972年に死去したが、死の床で何度も「乗客は無事か? 乗客は全員降りたか?」とつぶやいていたという[6]

脚注

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  1. ^ Cortesi, Arnaldo (July 29, 1956). Doria Warned Stockholm Twice Of Collision, Rome Paper Reports. New York Times
  2. ^ Horne, George (August 11, 1956). Italian line files $25,000,000 claim; Owner of Doria Asks Court to Deny Bid to Exonerate Stockholm in Crash. New York Times
  3. ^ Staff report (August 21, 1957). Italian Admiral Is Lost As Seas Sweep Yacht. New York Times
  4. ^ Andrews, Evan. “The Sinking of Andrea Doria”. HISTORY. 2021年6月3日閲覧。
  5. ^ Pecota, Samuel (2012年1月18日). “In Andrea Doria wreck, a captain who shone”. CNN. 2021年6月3日閲覧。
  6. ^ Sun, By Frederick N. Rasmussen, The Baltimore (2012年2月26日). “Some captains show bravery, others cowardice in face of maritime disasters”. baltimoresun.com. 2021年6月3日閲覧。

外部リンク

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