ピス健事件
ピス健事件(ピスけんじけん)は、1925年(大正14年)、日本で発生した連続強盗殺傷事件。犯行場所は東京府、神奈川県、京都府、大阪府、中国(満州)と広域に及んだ。ピス健とは、犯行に使われたピストルと犯人の偽名(守神健次)を掛け合わせた造語。
事件の経過
[編集]関東の事件
[編集]1925年(大正14年)11月9日、犯人の大西 性次郎は東京府南品川の小学校校長宅に強盗目的で押し入りピストルを発砲。弾丸は同居していた訓導に当たり死亡。校長宅から逃走した大西は、警戒中の高輪警察署の巡査と格闘となり、短刀で巡査を殺害してピストルを奪取した[1]。
逃走した大西は、神奈川県へ移動。戸塚町の寺院に押し入り、ピストルと短刀を突きつけ「品川の巡査殺しの犯人」と名乗った上で、現金60余円を奪って逃走した[2]。
関西の事件
[編集]同年11月14日、大西は中之島公園で知り合った[3]共犯・姫野 薫とともに、大阪府茨木町の飲食店に押し入り、仲居を射殺して逃走。姫野は当日中に逮捕されたが[4]、大西は逃げ切った。同年11月16日、大西は大阪市東淀川区の寺院に押し入り、住職にピストルと短刀を突きつけ現金160余円を奪って逃走した[5]。
さらに同年12月10日、大西は京都府京都市下京区の質店に押し入り、店主にピストルと短刀を突きつけ現金130円を奪って逃走した[6]。
逮捕・裁判
[編集]京都の事件後、大西は出身地の神戸市内へ移動するが、同年12月12日、警官隊が潜伏先に突入して逮捕された。逮捕後の取り調べで、大阪府の事件直後に満州の奉天市[注釈 1]へ移動し、現地でも2度強盗事件を起こしたことを自白した[7]。
翌年、大西と姫野の裁判は大阪地方裁判所で行われ、1926年(大正15年)9月25日に、大西に死刑、姫野に懲役8年の判決が言い渡された。大西は判決言い渡し後に控訴しないことを表明、死刑が確定した[8]。
その他
[編集]- 品川で殉職した巡査は、巡査部長に特進。大家族を抱えた模範巡査であることが伝えられると同情が集まり、岩崎小弥太から500円、森村開作から300円、鈴木三郎助から200円といった篤志家からの義援金が総額2500円ほど集まった[10]。
脚注
[編集]注釈
[編集]脚注
[編集]- ^ 「品川で小学校の教師と警官を殺す」『東京日日新聞』1925年11月10日夕刊(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』毎日コミュニケーションズ、1994年、本編p.229)
- ^ 「またもピストル強盗、横浜戸塚で」『東京朝日新聞』1925年11月12日夕刊
- ^ “短銃強盗「ピス健」(下)大阪で3人目の犠牲、警察を挑発して高飛び…最後は「女装姿」で御用”. 産経新聞 (2015年5月17日). 2023年8月6日閲覧。
- ^ 「大阪府茨木の飲食店で仲居を射殺」『大阪毎日新聞』1925年11月15日夕刊
- ^ 「今度は大阪市内の寺を襲う」『大阪毎日新聞』1925年11月17日夕刊
- ^ 「京都の質店にまたピストル強盗」『大阪毎日新聞』1925年12月11日
- ^ 「ピス健、ついに神戸で逮捕される」『東京日日新聞』1925年12月13日夕刊
- ^ 第二回公判で死刑の判決、即日確定『東京日日新聞』大正15年9月26日夕刊
- ^ 「ついに死刑執行」『大阪毎日新聞』1926年12月7日夕刊
- ^ “短銃強盗「ピス健」(上)複数偽名、サーカス仕込みの身のこなし…教員と巡査を射殺し、大包囲網すり抜け高飛び逃走”. 産経新聞 (2015年5月10日). 2023年8月6日閲覧。
関連項目
[編集]- 強盗致死傷罪
- ピス健 - 他にもピス健と呼ばれた人物が存在する
- 日本における死刑囚の一覧 (-1950年代)