フィリップス・スモーリー
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フィリップス・スモーリー Phillips Smalley | |
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1915年 | |
本名 | Wendell Phillips Smalley |
生年月日 | 1875年8月7日 |
没年月日 | 1939年5月2日(63歳没) |
出生地 | アメリカ合衆国 ニューヨーク市ブルックリン区 |
死没地 | アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス市ハリウッド |
職業 | 俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサー |
ジャンル | サイレント映画 |
活動期間 | 1910年 - 1939年 |
配偶者 |
ロイス・ウェバー (1906年 - 1922年離婚) フィリス・ロレイン・エフリン (1927年 - 1939年死別) |
著名な家族 | 一児 |
フィリップス・スモーリー(Phillips Smalley, 1875年8月7日 - 1939年5月2日)は、アメリカ合衆国の俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサーである。本名ウェンデル・フィリップス・スモーリー(Wendell Phillips Smalley)[1]。
人物・来歴
[編集]1875年(明治8年)8月7日、アメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン区に生まれる[1]。
ヴォードヴィルでキャリアを開始し、1910年(明治42年)から1939年(昭和14年)に亡くなるまでの間に200作以上の映画に出演している[1]。1911年(明治43年)には映画監督に進出、その後1921年(大正10年)までの間に300作以上の映画を演出した[1]。
1906年(明治39年)5月には女優でのちに脚本家、映画監督、プロデューサーとなるロイス・ウェバーと結婚し、婚姻関係は1922年(大正11年)まで続いた。1905年(明治38年)、スモーリーがマネージャーを務めていたゴーモンの米国部門に、ウェバーが女優として入社したときに、ふたりは出会った。スモーリーはウェバーの共同監督としてクレジットされているが、ウェバーの仕事へのスモーリーの貢献度は解明されてはいない。
1927年(昭和2年)には、二番目の妻フィリス・ロレイン・エフリンと結婚した[1]。
1939年(昭和14年)5月2日、カリフォルニア州ロサンゼルス市ハリウッドで死去した[1]。満63歳没。ハリウッド・ヒルズにあるフォレスト・ローン・メモリアル・パークの妻フィリスの墓所の隣に眠る。
おもなフィルモグラフィ
[編集]- Hop - The Devil's Brew : 1916年 - ロイス・ウェバーと共同で監督・主演
- The Flirt : 主演マリー・ウォールキャムプ、1916年 - ロイス・ウェバーと共同で監督
- John Needham's Double : 主演タイロン・パワー・シニア、1916年 - ロイス・ウェバーと共同で監督
- 『獄屋の月』 The Eye of God : 主演タイロン・パワー・シニア、1916年 - ロイス・ウェバーと共同で監督
- 『誰が為に』 Saving the Family Name : 主演メアリー・マクラレン、1916年 - ロイス・ウェバーと共同で監督
- 『家を求めて』 Wanted: A Home : 主演メアリー・マクラレン、1916年 - ロイス・ウェバーと共同で監督
- 『医師の女』 : 1918年 - ロイス・ウェバーと共同で監督・脚本
- 『緑地の夜』 : 1919年 - ロイス・ウェバーと共同で監督
- 『虚言の力』 : 監督ジョージ・アーチェンボード、1922年
- 『青春に浴して』 : 監督ジョン・フランシス・ディロン、1923年
- 『侠骨カービー』 : 監督ジョン・フォード、1923年
- 『ステラ・マリス』 : 監督チャールズ・ブレイビン、1925年
- 『紅ばらの唄』 : 監督ジャック・コンウェイ、1925年
- 『歓楽地獄』 : 監督ロイス・ウェバー、1927年
- 『道楽親爺』 : 監督フレッド・ウィンダーミア、1928年
- 『輝く天国』 : 監督ジェームズ・ティンリング、1929年
- 『のんきな叔母さん』 : 監督アル・E・クリスティ、1930年
- 『黄金に踊る』 : 監督ローウェル・シャーマン、1932年
- 『高飛び成層圏』 : 監督チャールズ・F・ライズナー、1935年
- 『化石人間』 : 監督ローウェル・シャーマン、1935年
関連事項
[編集]註
[編集]- ^ a b c d e f g Phillips Smalley, Internet Movie Database, 2010年4月2日閲覧。
- ^ フィリップス・スモーリー、キネマ旬報映画データベースおよびallcinema ONLINE, 2010年4月2日閲覧。