フィリップ1世・ド・クロイ=シメイ
フィリップ1世・ド・クロイ=シメイ Philippe Ier de Croÿ-Chimay | |
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2代シメイ伯 | |
在位 | 1473年 - 1482年 |
出生 |
1436年11月 |
死去 |
1482年9月14日 ブルゴーニュ公領、ブルッヘ |
配偶者 | ヴァルブルガ・フォン・メールス・ウント・ザールヴェルデン |
子女 |
シャルル1世 アントワーヌ フランソワーズ カトリーヌ マルグリット |
家名 | クロイ家 |
父親 | シメイ伯ジャン2世・ド・クロイ |
母親 | マリー・ド・ラレン |
フィリップ1世・ド・クロイ=シメイ(フランス語:Philippe Ier de Croÿ-Chimay, 1436年11月 - 1482年9月14日)は、シメイ伯、キエヴラン領主。ブルゴーニュ公に仕えた。
生涯
[編集]フィリップ1世はブルゴーニュ公フィリップ善良公の腹心ジャン2世・ド・クロイとマリー・ド・ラレンの長男でとして生まれた[1]。
フィリップはガーフェレの戦いの後、17歳で騎士に叙され、若くしてエノーの大バイイとなった[2]。28歳のとき、シャルル豪胆公の侍従に任ぜられたが、この決定に対しシャルルに相談がなかった。このことは、クロイ家に対するシャルルの強い憎しみをさらに強めた。
1465年にシャルル豪胆公が権力を握ると、フィリップ1世とその父ジャン2世、伯父アントワーヌ1世・ド・クロイを追放しました。フィリップ1世は1468年に初めてシャルル豪胆公と和解した[3]。1471年、フィリップ1世はナポリ王フェルディナンド1世と教皇シクストゥス4世に対する使節団を率いた[3]。
1473年に父親が亡くなると、フィリップは第2代シメイ伯となり[3]、金羊毛騎士団の騎士とされた。さらに、フィリップ・ド・コミーヌの裏切り後に没収された領地を受け取った。1474年から1477年の間、フィリップは新たにブルゴーニュが手に入れたゲルデルン公領の総督をつとめた[3]。
1477年、フィリップはナンシーの戦いで捕虜となり[4]、この戦いでシャルル豪胆公が戦死した。フィリップは釈放後、マクシミリアン1世に仕えた。
結婚と子女
[編集]フィリップ1世は1453年にヴァルブルガ・フォン・メールス・ウント・ザールヴェルデンと結婚し[1]、以下の子女をもうけた。
- シャルル1世(1455年 - 1527年) - シメイ伯、のちシメイ公[5]
- アントワーヌ(1546年没) - サンピー領主
- フランソワーズ - ブリエンヌ伯アントワーヌ・ド・リュクサンブールと結婚
- カトリーヌ - ブイヨン公ロベール2世・ド・ラ・マルクと結婚[5]
- マルグリット(1514年没) - 1501年にホルン伯ヤコブ3世と結婚
脚注
[編集]- ^ a b Vaughan 2010, p. 337.
- ^ Vaughan 2010, p. 196.
- ^ a b c d Vaughan 2002, p. 248.
- ^ Jones 1986, p. 100.
- ^ a b Bietenholz & Deutscher 1995, p. 363.
参考文献
[編集]- Contemporaries of Erasmus: A Biographical Register of the Renaissance and Reformation. University of Toronto Press. (1995)
- Jones, Michael (1986). Gentry and Lesser Nobility in Late Medieval Europe. Sutton
- Vaughan, Richard (2010). Philip the Good: The Apogee of Burgundy. 3. The Boydell Press
- Vaughan, Richard (2002). Charles the Bold: The Last Valois Duke of Burgundy. The Boydell Press
- Paravicini, Werner (2020). “Montée, crise, réorientation. Pour unse histoire de la famille de Croy au XVe siècle”. Revue belge de philologie et d'histoire 98 (2): 149–355.
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