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フィリッポ1世・ディ・サヴォイア=アカイア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フィリッポ1世・ディ・サヴォイア=アカイア
Filippo I di Savoia-Acaia
ピエモンテ領主
アカイア公
アカイア公フィリッポ1世のシール
在位 ピエモンテ領主1282年 - 1334年
アカイア公1301年 - 1307年

出生 1278年
サヴォイア伯国スーザ
死去 1334年9月25日
サヴォイア伯国ピネローロ
埋葬 サヴォイア伯国ピネローロ
配偶者 アカイア女公イザベル・ド・ヴィルアルドゥアン
  カトリーヌ・ド・ラ・トゥール・デュ・パン
子女 本文参照
家名 サヴォイア家
父親 ピエモンテ領主トンマーゾ3世・ディ・サヴォイア
母親 ギヨンヌ・ド・ブルゴーニュ
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フィリッポ1世・ディ・サヴォイア=アカイアイタリア語:Filippo I di Savoia-Acaia, 1278年 - 1334年9月25日)は、ピエモンテ領主(在位:1282年 - 1334年)、アカイア公(在位:1301年 - 1307年)。

生涯

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フィリッポ1世はピエモンテ領主トンマーゾ3世・ディ・サヴォイアとギヨンヌ・ド・ブルゴーニュの息子である。

フィリッポは1301年2月12日にローマアカイア女公イザベル・ド・ヴィルアルドゥアン(1312年没)と結婚した[1]。フィリッポはすでに1282年に父の跡を継いでピエモンテ領主となっていたが、この結婚によりアカイア公となった。しかしフィリッポは高圧的な人物であったため、アカイア公国の貴族らと対立することとなった。フィリッポはモレアの貴族らの怒りを鎮めようとしたが、1304年に議会を受け入れることを余儀なくされた。1302年にスコルタ英語版出身のギリシア人支配者らが反乱を起こした。1307年、アカイア公国の宗主権を持つナポリ王カルロ2世はアカイア公国を没収し、自身の息子ターラント公フィリッポ1世に与えた。

1312年、フィリッポはヴィエノワのドーファンアンベール1世の娘カトリーヌ・ド・ラ・トゥール・デュ・パン(1337年没)と再婚した[2]

1334年にフィリッポは死去し、ピエモンテはカトリーヌとの間に生まれた息子ジャコモが継承した。

子女

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アカイア女公イザベル・ド・ヴィルアルドゥアンとの間に1女をもうけた。

  • マルゲリータ(1306年 - 1376年) - 1324年にマラヴァル領主ルノー・ド・フォレ(1371年没、フォレ伯ジャン1世の子)と結婚

カトリーヌ・ド・ラ・トゥール・デュ・パンとの間に以下の子女をもうけた。

  • ベアトリーチェ(1312年 - 1340年) - 1334年にアンベール6世・ド・トワレ=ヴィラール(1372年没)と結婚[3]
  • ジャコモ(1315年 - 1367年)[4] - ピエモンテ領主
  • アメデーオ(1376年没) - モーリエンヌ司教(1349年 - 1376年)
  • トンマーゾ(1329年 - 1360年以降) - トリノ司教(1351年 - 1360年)
  • エドアルド(1395年没) - タロンテーズ大司教(1386年 - 1395年)
  • アイモーネ(1330年以降 - 1398年以降) - メンシア・ディ・チェーヴァと結婚、サヴォイア十字軍に参加。
  • エレオノーラ(1350年没) - 1333年にサルッツォ侯マンフレード5世と結婚
  • ジョヴァンナ(1355年没) - 1330年にエメ・ド・ポワティエ(1350年没、アイマール4世・ド・ヴァランティノワの子)と結婚
  • アグネーゼ(1384年11月28日没) - 1343年にモーリエンヌ子爵ジャン2世・ド・ラ・シャンブルと結婚
  • アリーチェ(1368年没) - 1325年頃にサヴォーナ(リグーリア)侯マンフレッド・デル・カッレットと結婚、1354年頃にユルティエールおよびサン=テレーヌ=デュ=ラック領主アンテルム・ド・ミオロンと結婚
  • エリザベッタ(1370年没) - ピネローロのサン・ジャコモ女子修道院長

また、数人の庶子がいる。

コイン・紋章

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脚注

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  1. ^ Longnon 1969, pp. 265–266.
  2. ^ Cox 1967, pp. 376–377.
  3. ^ Guichenon 1660, p. 326, Tome I.
  4. ^ Cox 1967, p. 23.

参考文献

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