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フィンリャンツキー駅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フィンリャンツキー駅
駅舎外観
Финля́ндский вокзал
Finlyandsky vokzal
地図
所在地 ロシアの旗サンクトペテルブルク
所属事業者 ロシア鉄道十月鉄道支社
駅構造 地上駅
ホーム 5面10線
開業年月日 1870年
乗換 レーニン広場駅サンクトペテルブルク地下鉄1号線
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フィンリャンツキー駅ロシア語: Финля́ндский вокзал)は、ロシア連邦サンクトペテルブルクにおける5つのターミナル駅の1つである。ヘルシンキヴィボルグ方面の列車が発着し、駅名は「フィンランドの」を意味する。

十月革命の前の1917年4月3日ユリウス暦)にウラジーミル・レーニンが亡命先のスイスからロシアに帰国する際に降り立った駅として有名である。

歴史

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プラットフォーム

1870年フィンランド鉄道リーヒマキ・サンクトペテルブルク鉄道のターミナル駅として開業した。駅舎はスウェーデンの建築家によって設計された。当時のフィンランドはロシア帝国の影響下にあり、この鉄道の建設はロシアへの忠誠の意味があった。現在の駅舎は1960年に建て替えられた現代的なデザインの建物である。建物の正面から見て左側(西側)はサンクトペテルブルク地下鉄1号線のプロシャチ・レニナ(レーニン広場)駅の南出入口となっている。

ロシア革命

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レーニンの帰国の際に使用された蒸気機関車

1918年まではフィンランド鉄道によって運営されていたが、ロシア革命によってフィン人と鉄道職員がフィンランド本国に避難すると共に、リーヒマキ・サンクトペテルブルク鉄道はロシアに譲渡された。代わりにロシアが所有していたヘルシンキのアレクサンドル劇場がフィンランドに譲渡された。

七月蜂起の騒動の後に労働者と兵士はが臨時政府の軍隊と衝突したとき、レーニンは身の安全と逮捕から逃れるためにフィンランドに逃れなければならなかった。レーニンは秘密裏にフィンランドに戻ると同時に鉄道労働者として身分を隠した。その時に使用された蒸気機関車は1957年にフィンランドからソビエト連邦に贈られ、現在も駅のホームに保存および展示されている。

第二次世界大戦

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1941年から43年のレニングラード包囲戦の間、フィンランドスキー駅はレニングラードで唯一使用され続けたターミナル駅であった。レニングラードとラドガ湖西岸近くを結び、ドイツ軍に占領されていない地域からの物資供給は湖の氷上を介して行われ、このルートは「命の道」と呼ばれた。

レーニン像の損傷

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2009年4月1日未明に駅前のレーニン広場にあるレーニン像が爆弾で爆破され、80 - 100cmの穴が像の後ろに生じた[1]

列車

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カレリアントレインズをはじめ、ヘルシンキ方面からの列車が発着する。但し、ヘルシンキからモスクワ方面に直通する列車はラドシュスキー駅を経由する。このほか、セストロレツクゼレノゴルスクプリモルスクヴィボルグプリオゼルスク方面などへの普通列車(エレクトリーチカ)も発着する。

脚注

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  1. ^ Europe | Bomb blows hole in Lenin statue”. BBC News (2009年4月1日). 2016年12月12日閲覧。

関連項目

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座標: 北緯59度57分20秒 東経30度21分24秒 / 北緯59.95556度 東経30.35667度 / 59.95556; 30.35667