フィン・マルムグレン
フィン・マルムグレン | |
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生誕 |
1895年 スウェーデン |
死没 |
1928年6月 北極 |
研究分野 | 気象学 |
出身校 | ウプサラ大学 |
プロジェクト:人物伝 |
フィン・アドルフ・エリク・ヨハン・マルムグレン (Finn Adolf Erik Johan Malmgren、1895年 - 1928年6月)は、スウェーデンの気象学者・北極探検家。イェーテボリ生まれ。
経歴
[編集]マルムグレンはイェーテボリ、スンツヴァルおよびストックホルムで学問を修めた。1912年にウプサラ大学に入学し、1916年に学士号を受けた。1917年、アクセル・ハンベルク教授の助手となりPårtetjåkkoの観測所で勤務した。1920年にウプサラの気象学会に戻ると、翌年にはオットー・ペテルソン教授の水路研究所の准教授となり、グルマルスフィヨルド(Gullmarsfjord)にある島で海洋研究に従事した。
1922年から1925年にかけて、マルムグレンは北極でモード号に乗ってロアール・アムンセンとハラルド・スヴェルドラップの探検に参加した。1926年には、北極の上空を飛んだイタリアの飛行船ノルゲ号に乗り、そこでフランティシェク・ベゴウネクの科学的手法を学んだ。
1928年に、マルムグレンはウンベルト・ノビレの飛行船イタリア号による北極探検に参加した。5月25日、3回目の飛行で飛行船は墜落し、数人の探検隊メンバーが浮氷に取り残された。肩に負傷したマルムグレンもそこにいた。5月30日、マルムグレンはイタリアの士官フィリッポ・ザッピ、アダルベルト・マリアーノと共に、助けを求めるためにキングズベイ(ニーオーレスン)に歩いて戻ることを決めた。6月15日ないし16日、マルムグレンは倒れ、そこに取り残していくよう二人に頼んだ。7月11日、ソビエトの砕氷船クラーシン搭載の飛行機のパイロット・チュクノフスキーは、生存しているマリアーノとザッピ、更にマルムグレンの遺体を発見した。マリアーノとザッピはその翌日救助されたが、フィン・マルムグレンの遺体は見つからなかった[1]。
マルムグレンの死の状況はいまだに明らかになっていない。報道では、ザッピとマリアーノに対し、マルムグレンの放置、さらには人肉食の疑いさえかけられた[3]。
脚注
[編集]- ^ “AERONAUTICS: Dead, Missing”. タイム (1928年7月23日). 2019年7月19日閲覧。
- ^ “INTERNATIONAL: Ring Around Nobile”. タイム (1928年8月6日). 2019年7月19日閲覧。
- ^ 一例を挙げれば1928年8月のタイム誌がザッピに関する疑惑(マリアーノは救出から数ヵ月後に死亡した。)を報じている[2]。