フェルナンド・バレエ

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フェルナンド・バレエ
Fernande Barrey
フェルナンド・バレエ(1915年頃)
生誕 1893年1月9日
フランスの旗サン=ヴァレリー=シュル=ソンム
死没 (1960-07-17) 1960年7月17日(67歳没)
フランスの旗パリ
国籍 フランスの旗 フランス
職業 美術モデル画家
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アメデオ・モディリアーニ『フェルナンド・バレエの肖像』(1917年)

フェルナンド・バレエFernande Barrey1893年1月9日 - 1960年7月14日[1]フランス美術モデル画家

生涯[編集]

1893年、サン=ヴァレリー=シュル=ソンムに生まれる。1908年頃、まだ十代でパリに上京、売春婦として生計を立てる。その後、写真家ジャン・アジェロウ、画家アメデオ・モディリアーニシャイム・スーティンの美術モデルとなる。

1917年3月、モンパルナスラ・ロトンドで日本人画家の藤田嗣治と出会い[2]、13日後に結婚する[1]1918年、二人はドイツの空襲を恐れて南仏のカーニュ=シュル=メールに移住。その地で数年、絵を描いたり多くの友人と会うなどして過ごす[1]。モディリアーニの妻ジャンヌ・エビュテルヌとはこの時期に親しくなった[3]1920年、モディリアーニが結核で亡くなった時には、悲しみにくれるジャンヌを慰めるが、その甲斐なく、ジャンヌは妊娠8ヶ月の身で自殺してしまう。

1925年、夫婦は性的にとてもオープンな関係にあった。フェルナンドは夫と同じ日本人画家の小柳正(1897年 - 1948年)[4]と肉体関係を持つ。藤田はそれが許せず、「ユキ」ことリュシー・バドゥと3日間、姿をくらます。フェルナンドはそうとは知らず、パリの死体安置所まで夫を探しに行った。1928年、二人は離婚[5]。フェルナンドはモンパルナスで小柳と暮らした。1935年、小柳と別れると元夫の藤田との関係は改善され、以後、彼女が亡くなるまで藤田は財政的にフェルナンドを援助した。

有名なピンナップガール「ミス・フェルナンダ」の正体は、ヌード絵葉書で知られるジャン・アジェロウのモデルをしていたことなどから[6]フェルナンドではないかと言われるが、明確な証拠はない[7]

画家としては、1929年サロン・ドートンヌで『Josiane』『Les Pêches』を出品した[8]

映画の中のフェルナンド[編集]

藤田嗣治の伝記映画『FOUJITA』ではマリー・クレメール英語版がフェルナンドを演じた。

ギャラリー[編集]

撮影はジャン・アジェロウ

脚注[編集]

  1. ^ a b c Fernande Barrey”. www.helfenfinearts.com. 2019年2月28日閲覧。
  2. ^ Modigliani & Parisot 2005, p. 96.
  3. ^ Meyers 2014.
  4. ^ 小柳正(筑波大学附属図書館)
  5. ^ Berk & Banham 2001, p. 157.
  6. ^ La Volpe 2005.
  7. ^ Lemonier 2015, p. 332.
  8. ^ Édouard-Joseph 1930, p. 81.

文献[編集]