フスロー
フスロー | |
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ムガル帝国皇子 | |
出生 |
1587年8月16日 ラホール |
死去 |
1622年1月16日 ブルハーンプル |
子女 |
ダーワル・バフシュ グルシャースプ |
父親 | ジャハーンギール |
母親 | マーン・バーイー |
宗教 | イスラーム教(スンナ派) |
フスロー(ウルドゥー語:خسرو مِرزا, ヒンディー語 ख़ुसरो मिर्ज़ा, Khusrau, 1587年8月16日 - 1622年1月16日)は、北インド、ムガル帝国の第4代皇帝ジャハーンギールの長男。第5代皇帝シャー・ジャハーンの兄にあたる。
生涯
[編集]1587年8月16日、ムガル帝国の皇帝ジャハーンギールの長男として生まれる。母はアンベール王バグワント・ダースの娘マーン・バーイーである[1]。
ジャハーンギールが皇子時代に皇帝アクバルに反乱を起こした際、フスローは有力貴族マーン・シングやミールザー・アズィーズ・コーカらによって父に代わる後継者に祭り上げられた。だが、大多数の反対とチャガタイの法と慣習に反対するとの意見もあり、結果としてこれは失敗した[2]。
1606年4月6日、フスローは父帝に反乱するために騎兵350騎とともにアーグラを去った[3]。彼はアクバル廟に一旦滞在し、マドゥラーではフサイン・ベグ率いる3000騎が駆けつけた。その後、ラホールへと向かう途中、シク教のグル・アルジュンも味方に付き、支援を申し出た[4]。
フスローはラホールを包囲したが、間もなくジャハーンギール率いる軍勢が駆けつけ、彼は敗れた[4]。その後、カーブルへ逃げようとしたものの、チェナーブ川を渡河とした際に追手に捕えられ、アーグラへ連行された[4][5]。
フスローはジャハーンギールの前に鎖に繋がれたまま引き出され、のち投獄された。また、彼は自分に従った300人が串刺しにされるのを見せつけられた[4]。フサイン・ベグやシク教のグル・アルジュンも殺害された[4][6]。
1607年、フスローが獄中で父帝暗殺を企てていたことが判明し、罰として彼は盲目にされた[4]。このとき、父帝はこれを死罪に値すると思っていたが、愛情が邪魔して出来なかったとのちに語っている[4]。
1620年、弟フッラムがデカン遠征に行くときにフスローの引き渡しを求めたため、彼は引き渡された[7]。1621年にフッラムがデカン地方で輝かしい勝利を収めたのち、1622年1月16日にフスローはブルハーンプルで殺害された[1][7][8][9]。
死後、フスローの遺体はブルハーンプルに埋葬されたのち、母の遺体の眠るアラーハーバードに送られ、母の横に埋葬された[10]。その墓廟のある庭園はフスロー・バーグと呼ばれているようになった[10]。
脚注
[編集]- ^ a b Delhi 5
- ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.150
- ^ Majumdar, R.C. (ed.)(2007). The Mughul Empire, Mumbai: Bharatiya Vidya Bhavan, p.179
- ^ a b c d e f g ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.205
- ^ The Flight of Khusrau The Tuzk-e-Jahangiri Or Memoirs Of Jahangir, Alexander Rogers and Henry Beveridge. Royal Asiatic Society, 1909–1914. Vol. I, Chapter 3. p 51, 62-72., Volume 1, chpt. 20
- ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.162
- ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215
- ^ Mahajan V.D. (1991, reprint 2007) History of Medieval India, Part II, New Delhi: S. Chand, ISBN 81-219-0364-5, pp.126-7
- ^ Melton, J. Gordon (Jan 15, 2014). Faiths Across Time: 5,000 Years of Religious History. ABC-CLIO. p. 1163 Nov 3, 2014閲覧。
- ^ a b クロー『ムガル帝国の興亡』、p.163
参考文献
[編集]- フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。
- アンドレ・クロー 著、杉村裕史 訳『ムガル帝国の興亡』法政大学出版局、2001年。