フランシス・ヘンリー・トレビシック
フランシス・ヘンリー・トレビシック(Francis Henry Trevithick、1850年7月23日 - 1931年4月18日)は、イギリスの機械技術者[1]。
概要
[編集]蒸気機関車の発明者の一人であるリチャード・トレビシック(Richard Trevithick)の三男であるフランシス・トレビシック(1812年 - 1877年、機関車コーンウォール号の設計者)の三男。1876年にお雇い外国人として来日[2]、主として官設鉄道新橋工場の汽車監察方(汽車監督:Locomotive Superintendent)などを歴任した。日本で日本人女性と結婚して二男二女をもうけ、1897年に退職帰国した。 日本でのリチャード・トレビシック研究で知られる奥野太郎はフランシス・ヘンリーの孫にあたる。
兄のリチャード・フランシス・トレビシック(Richard Francis Trevithick)も機関車技術者であり、弟のフランシス・ヘンリーよりも遅れて1888年に来日、主に神戸工場の汽車監察方などを勤め、1904年まで勤務している。兄弟とも、日本の機関車技術の向上と定着に大きな役割を果たした[3]。
著作
[編集]汽車監察方フランシス・トレビシックの名により、1892年10月14日付で機関車の略図"The Outline Leading Dimensions, and Weights of the Different Classes of Locomotives"が発行された。また、1893年4月12日付で"The Outline Leading Dimensions, Weights and Capacities of the Different Classes of Carriages & Wagons"と称し、当時在籍する客貨車を形式別に略図で示したものも発行された。これらは日本の鉄道の初期の車両(特に客車)に関する根本資料が少ない中、貴重な基本資料となっている。『日本国有鉄道百年史』にも、この2篇から多くの図面を採録している[3]。
また彼には、"The History and Development of the Railway System in Japan"(日本における鉄道網の歴史と発達)と題する論文がある。これは1890年代、横浜の日本アジア学会(The Japan Asiatic Society)で発表され、その機関誌に掲載されたが、1895年に"The Railway Engineer"誌に採録された。これも日本の初期の鉄道史、例えば3フィート6インチ・ゲージ採用や、客車の状況などについての貴重な資料である[4]。
脚注
[編集]- ^ F.H.トレビシックとも書かれ、またその姓はトレヴィシックとも書かれる。
- ^ 「英人トレヴィシック雇入」『太政類典・第二編・明治四年〜明治十年・第七十四巻・外国交際十七・外客雇入十一』 。2016年5月27日閲覧。(国立公文書館デジタルアーカイブ)
- ^ a b 青木 1966.
- ^ 青木 2002.
参考文献
[編集]- 青木栄一「わが国の鉄道における初期の客車の変遷について」『都留文科大学研究紀要』第3集、1966年、20-64頁、CRID 1520853835332133376。
- 青木栄一「3フィート6インチ・ゲージ採用についてのノート」『文化情報学:駿河台大学文化情報学部紀要』第9巻第1号、2002年、28-39頁、CRID 1390572174836658176、doi:10.15004/00000689。
- 植田健嗣『ヨーロッパ鉄道旅行』 I(イギリス)、保育社〈カラーブックス〉、1985年5月。ISBN 4-586-50681-4。
- 奥野太郎「リチャード・トレビシック 生誕200年を迎えて」『鉄道ピクトリアル』No.249、1971年4月、4-6頁。
- 日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史』全19巻(『百年史』と略し、巻、頁で示す)