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フランチェスコ・ポデスティ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フランチェスコ・ポデスティ
Francesco Podesti
生誕 (1800-03-21) 1800年3月21日
アンコーナ
死没 1895年2月10日(1895-02-10)(94歳没)
ローマ
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フランチェスコ・ポデスティ(Francesco Podesti、1800年3月21日 - 1895年2月10日)は、イタリアの画家である。肖像画や歴史画を描き、ヴァチカン宮殿のフレスコ画も描いた。

略歴

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イタリア中部のアドリア海沿岸の港町、アンコーナの仕立て屋の息子に生まれた[1]。父親が亡くなった後、ローマに移り、アカデミア・ディ・サン・ルカで、ガスパーレ・ランディ(Gaspare Landi: 1756-1830)やヴィンチェンツォ・カムッチーニ(1771-1844)に学び[2] 、カムッチーニの工房で助手として働いた。1824年に支援を受けていたアンコーナに作品を寄贈した。アンコーナの教会の祭壇画の注文を受け、ローマで肖像画家として働いた。

ローマの貴族のトルロニア家のメンバーから注文を受けるようになり、1835年にトルロニア家の邸宅の壁画を制作した。その年アカデミア・ディ・サン・ルカの会員に選ばれた。イタリア各地で仕事をするようになり1836年にサルデーニャ王国の国王カルロ・アルベルトからトリノの王宮に装飾画を描く注文を受け、1841年に完成させた[3]。トリノ滞在中に結婚した。サルデーニャ国王から勲章を授与され、トリノの美術学校(Accademia Albertina)の校長になることを要請されたが、それを辞退しローマに戻った。

革命でローマ共和国が成立した後、鎮圧のために派遣されたフランス軍と1949年の春にローマ大学の戦いを士官として戦った。1851年のロンドン万国博覧会に作品を出展した。

1856年から1865年の間、教皇ピウス9世のために、ヴァチカンの「無原罪のお宿りの広間」の壁画を描いた。

80歳を越えても展覧会への出展を続け、1895年にローマで亡くなった。

作品

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脚注

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  1. ^ Giangiacomi Palermo, Ancona Guide in History of Ancona since its foundation till today Publishing Fogola, Ancona, 1923
  2. ^ Conversations-Lexikon der Gegenwart in vier Bänden. 3 (K bis O). Brockhaus, Leipzig 1840, S. 492.
  3. ^ "Heraldische Spuren: Podesti". Heraldrys Institute of Rome. 2022年7月6日閲覧

参考文献

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  • Francesco Santaniello: PODESTI, Francesco. In: Raffaele Romanelli (Hrsg.): Dizionario Biografico degli Italiani (DBI). Band 84: Pio VI–Ponzo. Istituto della Enciclopedia Italiana, Rom 2015.