フランツ・デ・パウラ・フォン・シェーンボルン
フランツ・デ・パウラ・フォン・シェーンボルン | |
---|---|
プラハ大司教、枢機卿 | |
フランツ・フォン・シェーンボルン枢機卿の胸像、ヴィクトル・ティルグナー(Viktor Tilgner)制作 | |
大司教区 | プラハ |
着座 | 1885年7月27日 |
離任 | 1899年6月25日 |
聖職 | |
司祭叙階 | 1872年8月18日 |
司教叙階 | 1883年11月18日 |
枢機卿任命 | 1889年5月24日 |
個人情報 | |
出生 |
1844年1月24日 オーストリア帝国、プラハ |
死去 |
1899年6月25日 オーストリア=ハンガリー帝国、ファルケナウ・アン・デア・エーゲル |
墓所 | 聖ヴィート大聖堂 |
両親 |
父:エルヴァイン・フォン・シェーンボルン 母:クリスティーナ・フォン・ブリュール |
フランツ・デ・パウラ・フォン・シェーンボルン(独:Franz de Paula(Franziskus von Paula) Graf von Schönborn, 1844年1月24日 - 1899年6月25日)は、オーストリア=ハンガリー(二重帝国)のカトリック教会の高位聖職者。ブドヴァイス司教、プラハ大司教、枢機卿。
生涯
[編集]高位聖職者を多く出したシェーンボルン家の一員であるエルヴァイン・フォン・シェーンボルン伯爵(1812年 - 1888年)[1]と、その妻の伯爵令嬢クリスティーナ・フォン・ブリュール(1817年 - 1902年)[2]の間の末息子として生まれた。プラハ、インスブルック、ローマで法学と神学を学び、1875年にグレゴリアン大学で神学博士号を取得した。1872年に下級聖職者の職を得た後、1873年8月7日に副助祭、8月10に助祭、そして8月18日に司祭に叙階された。1875年よりプラーン・バイ・マリーエンバートで小聖堂付き司祭を務めた。1879年にプラハの神学校の副校長となり、1882年に校長に昇進した。
1883年8月22日、オーストリア皇帝政府によりブドヴァイス司教後継者に指名された。同年9月29日の教皇庁の追認を経て、11月18日にプラハ大司教フリードリヒ・ツー・シュヴァルツェンベルクによって司教叙階を受け、11月25日に正式にブドヴァイス司教に就任した。1885年にシュヴァルツェンベルクが死去するとその後継者に指名され、同年7月27日に教皇の認可を得てプラハ大司教に着任。1889年5月24日、教皇レオ13世によりサン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会を名義聖堂とする司祭枢機卿に任命された。
ハンガリーの聖イシュトヴァーン勲章大十字章を受けている。死後、遺骸は聖ヴィート大聖堂に葬られた。ウィーン大司教クリストフ・シェーンボルンは兄の玄孫にあたる。
参考文献
[編集]- Erwein Prinz von Lobkowicz: Erinnerungen an die Monarchie, Amalthea Verlag Wien, 1989, ISBN 3-85002-276-5 (auf Seiten 64-102 eigenes Kapitel über Kardinal Graf von Schönborn, welcher der Onkel des Verfassers war)
脚注
[編集]外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、フランツ・デ・パウラ・フォン・シェーンボルンに関するカテゴリがあります。
- Kurzbiografie von Franziskus von Paula Schönborn (englisch)
- Biografie von Franziskus von Paula Schönborn (tschechisch)