フリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル
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フリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル Friedrich August von Cosel | |
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出生 |
1712年8月17日 神聖ローマ帝国 ザクセン選帝侯領、ドレスデン |
死去 |
1770年10月15日(58歳没) ザボール |
配偶者 | フリーデリケ・クリスティアーネ・フォン・ホルツェンドルフ |
子女 |
コンスタンティア・アレクサンドラ グスタフ・エルンスト シャルロッテ・ルイーゼ・マリアンネ ジギスムント |
家名 | ヴェッティン家アルブレヒト系 |
父親 | ポーランド王アウグスト2世 |
母親 | コンスタンティア・フォン・コーゼル |
フリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル(Friedrich August Graf von Cosel, 1712年8月17日 - 1770年10月15日)は、ドイツ・ザクセン選帝侯領の将軍。伯爵。
生涯
[編集]ザクセンとポーランドの統治者アウグスト強王と、愛妾のコーゼル伯爵夫人アンナ・コンスタンティアの間の3番目・最後の非嫡出子。王の認知された非嫡出子の中では最年少であった。
オーストリア継承戦争では1741年のプラハ占領に従軍。この時の軍功を評価され、ザクセン軍の歩兵大将及び近衛連隊長に任じられたが、軍隊生活は性に合わず1746年早くも軍務を引退する。1746年6月1日、ザクセンの有力政治家でオーバーリヒテナウ城主のクリスティアン・ゴットリープ・フォン・ホルツェンドルフ伯爵(1696年 - 1755年)の娘フリーデリケ・クリスティアーネ(1723年 - ?)と結婚し、間に5人の子をもうけた。
1762年、ドレスデン市街地の地所を購入し、建築家ユリウス・ハインリヒ・シュヴァルツェに命じてコーゼル宮殿を建造したが、実際に居住することはなかった。また、母方の祖父母から相続したホルシュタイン地方デーペナウ荘園にも住まず、ニーダーシュレージエン地方ザボール荘園で家族と共に暮らした。彼はザボール城をロココ様式に改築した。
息子たちはいずれも生涯未婚だったため、コーゼル伯爵の家名は1789年に絶えた。
子女
[編集]- 息子(1750年、夭折)
- コンスタンティア・アレクサンドラ(1752年 - 1804年) - 1772年クヌーテンボリ=ギュルデンステーン伯ヨハン・ヘンリク・クヌートと結婚、1男4女をもうける
- グスタフ・エルンスト(1755年 - 1789年) - 未婚
- シャルロッテ・ルイーゼ・マリアンネ(1757年 - 1831年) - 1781年ルドルフ・フォン・ビューナウ伯爵(1750年 - 1806年)と結婚、娘1人をもうける、子孫にハンニバル・フォン・リュッティヒャウがいる[1]
- ジギスムント(1758年 - 1786年) - 未婚、ザクセン近衛連隊中尉
参考文献
[編集]- Die von Coselschen Erben (1744 – 1783) - Stolpe am See - 2020年4月28日閲覧。