フリー聖餐
フリー聖餐(ふりーせいさん)とは、キリスト教の聖餐論で、洗礼を受けているか受けていないか、またキリスト教信仰の有無に関わらずに、礼拝参加者に聖餐に与からせること。公開聖餐[1]、未受洗者配餐[2]とも言う。オープン聖餐(オープン・コミュニオン)とは、必ずしも同義ではない。
日本での議論
[編集]日本基督教団では教会派がフリー聖餐を非難してこれを「聖餐の乱れ」と呼んで問題にしており[3]、2007年の第35総会において、山北宣久教団総会議長は、フリー聖餐を行った日本基督教団紅葉坂教会の北村慈郎牧師に対して「教師退任勧告決議案」を出し[4][5][6][7][8][9]、東神大教授の山口隆康は「日本基督教団紅葉坂教会における違法な聖礼典の執行の問題」と題して講演をし[10]、キリスト新聞紙上でフリー聖餐の擁護派の小中陽太郎と反対派の東神大教授芳賀力が論争するなど、聖餐を巡る対立が続いていたが[11]、北村は2010年1月26日、牧師職免職の戒規処分となった[12][13]。
根拠
[編集]肯定論
[編集]芳賀力によれば、フリー聖餐肯定論の主張は概ね以下のようなものである[14]。
せっかく教会に来てくれたのに、洗礼をうけていないから聖餐は受けられませんというのでは、締め出しているようで申し訳ない。まず一緒に楽しくパンを食べ、ぶどう酒を飲むことを体験してもらって仲間になってもらえば、そこから洗礼を受ける者も現れるのではないかというわけです。主イエスも罪人呼ばわりされていた人たちと一緒に食事をしたではないか。それに福音書には五千人、四千人の給食の話も伝わっている。あれは神の国が来た時に、ユダヤ人(五千人)も異邦人(四千人)もすべての者が招かれて祝宴を催す、その先取りであって、そこには洗礼を授けていたという記事は、マルコ・マタイ・ルカなどの共観福音書には見当たらない。聖餐式の原型と言われる最後の晩餐にしても、そこには主を裏切ったユダも加わっていた。だから信仰だとか洗礼だとか、とやかく言わないで、その場にいる者全員に、大人も子供も、たとえ意味が分からなくてもパンを食べぶどう酒を飲んでもらおう — 芳賀『洗礼から聖餐へ』11ページ
また、世界教会協議会のエキュメニカル運動の中で、一部の人たちが「神ご自身が教会を飛び越して、直接世界にさまざまな仕方で働きかけておられ、教会はただその神の宣教に参加しているだけだ」と考えるべきという主張をしており、聖餐の行為自体が神の宣教への参与なのだから、未受洗者に陪餐してもらうことが伝道であり、それが世界の趨勢だという主張もある[15]。
富田正樹は、フリー聖餐を肯定する論述の中で、「人間には贖いが必要ではない」と述べている[16]。
否定論
[編集]2006年6月27日、日本基督教団の信仰職制委員会は、教規第135条「信徒は、陪餐会員および未陪餐会員に分けて登録しなければならない。ただし、未陪餐会員のない教会ではこの限りでない。」および第138条(1)「未陪餐会員とは、幼児で父母の信仰に基づきバプテスマを領し、まだ聖餐に陪しえない者をいう。」、第136条「陪餐会員とは、信仰を告白してバプテスマを領した者、または未陪餐会員で堅信礼または信仰告白式を了した者をいう。」[17]を根拠に、未受洗者が聖餐に与ることはできず、未受洗者への配餐を教会総会および教会役員会で決議した場合、教規に違反する決議となるため無効である、と答申した[18]。
これは、日本基督教団の教憲教規に照らし合わせての判断であり、東野尚志は「どうしても、この一致の要を共有できないのであれば、新しい教団を造ればよいのである。それを妨げるものは地上には存在しない。」と述べた[3]。
司式
[編集]教会によっては、聖餐式において、配餐に先立ち、コリントの信徒への手紙一11章23節-29節を朗読している[19]。
わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。
しかしフリー聖餐派は、11章の20節から34節までを広範囲に読み、「当時のコリント教会では、聖餐は貧困者に対する炊き出しを兼ねていたものであった。しかし食べ物に困ってない人が食事を独占することによって、貧困者が食事にありつけないことがあったので、パウロはこれを戒めたに過ぎない」と解釈し、「ふさわしくないものは聖餐を受けられない」とするのは、聖句の一部を恣意的に抜き出した解釈であるとしている。
そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。
というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。
あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。
(23節-29節は重複のため省略)
あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。
しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。
しかし、さばかれるとすれば、それは、この世と共に罪に定められないために、主の懲らしめを受けることなのである。
それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。
もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。そのほかの事は、わたしが行った時に、定めることにしよう。
フリー聖餐派の教会では、この「コリント人への手紙一」を朗読することはなく、「この場に集った人は、集おうという意思をもった時点でみな聖餐を受けられる」「神の恵みは一方的に受けられるものであり、資格が必要であるとすれば、それは恵みではなく報酬になってしまう」などの文句を使用し、すべての会衆にパンとぶどう酒を分け与えている。[要出典]
脚注
[編集]- ^ 『ローマ書新解-万人救済の福音として読む』付論1
- ^ 山北宣久 (2007年12月8日). “【4640号】未受洗者配餐をめぐって”. 2016年8月16日閲覧。
- ^ a b 東野尚志「聖餐の乱れについて」『宣教』、全国連合長老会、2008年7月。
- ^ 日本基督教団(日本キリスト教団)資料
- ^ K教師に対する「戒規申し立て」に憂慮する有志の会
- ^ 岐路に立つ日本基督教団 退任勧告決議をめぐって
- ^ 彷徨う聖餐共同体
- ^ 「唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会」が建てられるために
- ^ 聖なる闘い、聖なる連帯――生き残ることが出来るか
- ^ 山口隆康「日本基督教団紅葉坂教会における違法な聖礼典の執行の問題」について(東京神学大学第39回教職セミナーにおける講演)
- ^ キリスト新聞2007年1月号
- ^ 『福音と世界』2010年3月号「北村慈郎牧師に「免職」戒規 編集部」
- ^ 日基教団 未受洗者配餐で北村慈郎牧師へ 史上初の「免職」戒規適用 2010年2月27日
- ^ 芳賀 2006, p. 11.
- ^ 芳賀 2006, p. 13.
- ^ 富田正樹. “下世話なQ&A 「聖餐式って、信者でなくても食べていいんですか?」”. 2016年8月16日閲覧。
- ^ 日本基督教団. “教規 -第6章- 信徒”. 2016年8月16日閲覧。
- ^ 日本基督教団 信仰職制委員会 委員長 岡本知之 (2006年6月27日). “06/6/27信仰職制委員会答申 未受洗者の陪餐について”. 2016年8月16日閲覧。
- ^ 藤掛順一 (2007年10月7日). “パンを食べ、杯を飲む群れ”. 横浜指路教会. 2023年10月1日閲覧。
参考文献
[編集]- 『聖餐-なぜ受洗者の陪餐か』川村輝典、宍戸基男、関川泰寛、藤掛順一、芳賀力共著 日本基督教団改革長老教会協議会
- 芳賀力『洗礼から聖餐へ』キリスト新聞社、2006年10月1日。ISBN 978-4-87395-474-5。
- 『自立と共生の場としての教会』北村慈郎 新教出版社 ISBN 9784400324447
- 三十番地キリスト教会「みんなでたたこう聖書とメッセージ研究のコーナー 2010年3月のテーマ: 「主の晩餐」」