小中陽太郎
誕生 |
1934年9月9日 日本 兵庫県神戸市 |
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死没 |
2024年12月3日(90歳没) 日本 東京都目黒区 |
職業 | 小説家・評論家・翻訳家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
主な受賞歴 | 野村胡堂文学賞(2013年) |
ウィキポータル 文学 |
小中 陽太郎(こなか ようたろう、1934年〈昭和9年〉9月9日[1] - 2024年〈令和6年〉12月3日)は、日本の小説家、社会評論家、翻訳家。
来歴・人物
[編集]幼時を上海で過ごす。東京都立大学附属高等学校を経て、東京大学文学部仏文科で渡辺一夫に師事。1958年に同大学を卒業してNHKに入り[1]、ディレクターとして『夢であいましょう』などを手がける。
1964年に退職してフリーとなり[1]、野坂昭如の薫陶を受けてルポルタージュやコラムを執筆[1]。
1965年、小田実たちと共にベ平連を結成[1]。世話人としてパリやハノイやストックホルムに赴き、国際連帯に貢献する。特に脱走兵援助では、ハノイやモスクワを巡った[1]。
1970年から法政大学講師を務める[1]。1979年公開の映画「十八歳、海へ」(監督・藤田敏八、主演・森下愛子)に、大学講師役で出演した。
1983年にフルブライト交換教授として渡米し[1]、ウェストヴァージニア大学客員教授[1]、のちにニューヨーク市立大学ブルックリン校客員教授を務める[1](1984年まで)。
1991年、日本に帰国して中部大学女子短期大学[1]英語英米文化学科主任教授、および中部大学[1]人文学部コミュニケーション学科教授に就任。
1992年、ペン大会日本代表としてバルセロナに赴く[1]。名古屋経済大学短期大学部[1]放送コース客員教授、星槎大学客員教授[1]。2013年、『翔べよ源内』で第1回野村胡堂文学賞を受賞。
日本ペンクラブ専務理事(1997年 - )[1]。アジアキリスト教協議会議長。また日本ジャーナリスト専門学校の講師も務めたこともあった。
「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人を務めていた[2]。
2024年12月3日午前11時21分、老衰のため、東京都目黒区の自宅で死去した[3][4]。90歳没。
親族
[編集]- 長女は星槎大学非常勤講師の小中さつき。
- 次女はフジテレビで『SMAP×SMAP』などの広報を2017年10月まで担当していた小中ももこ[5]。
- 梅原猛は厳密には従兄弟ではなく、小中の妻の父の妹の夫の弟の息子にあたる。小中の妻の叔母が梅原の養母(小栗風葉の妹・俊)であるため、従兄弟と表記している文献もある。
著書
[編集]- 『愛と別れ』(河出書房新社) 1964年
- 『手づくりの論理』(合同出版) 1969年
- 『秘聞の書 歓喜の話をたっぷり読もう』(大和書房、ダイワブックス) 1969年
- 『天誅組始末記』(大和書房) 1970年
- 『女のいろめがね 出世のために・交際のために・女のコをベッドで裸にするために』(秋田書店、サンデー新書) 1970年
- 『昭和元禄・行動的にっぽん人 常識を変えた現代の英雄』(明文社) 1970年
- 『王国の芸人たち』(講談社) 1972年
- 『小説 ふぁっく』(現代評論社) 1972年
- 『脱サラ発想術 ダイナミックに生きる新職業論』(産報、サンポウブックス) 1972年
- 『私の中のベトナム戦争』(産経新聞社) 1973年
- 『小説灘高校』(サンケイ新聞社出版局) 1974年
- 『ええカッコしの無限地獄』(時事通信社) 1975年
- 『信じない奴の人間学 しぶとく生きるために』(青春新書) 1975年、のち改題『こころを強くする技術』(青春文庫)
- 『おれは何を目指せばいいんだ 偉くならなくていい』(青春出版社、青春新書) 1976年
- 『世界艶遊パック』(グリーンアロー出版社) 1977年
- 『体験』(グリーンアロー出版社) 1978年
- 『キミの青春よ! 対談集』(三一書房) 1978年
- 『ジーンズの平家たち』(毎日新聞社) 1979年
- 『栃若一代』(読売新聞社) 1980年
- 『小説 内申書裁判』(光文社) 1980年
- 『溶解する思想』(花曜社) 1981年
- 『よい子わるい子いじめっ子』(ポプラ社、のびのび人生論) 1982年
- 『反ゲンコツ口論 いま父は子に何ができるか』(主婦の友社) 1982年
- 『ぼくはポーランドを旅した』(筑摩書房) 1983年
- 『我が子が他人に見える日 子どもが親を憎悪する瞬間とは 徹底取材戸塚宏×穂積隆信』(第一企画出版) 1983年
- 『ぼくは人びとに会った - 法と人間のはざまに』(日本評論社) 1984年
- 『不思議の箱のテレビ考 戦後世代の芸能史』(駸々堂出版) 1984年 NDLJP:12276008
- 『教育の誤算 教育荒廃をうちやぶれ』(金子書房) 1987年
- 『ブラウン管のなかのアメリカ』(岩波書店、岩波ブックレット) 1987年 NDLJP:12179772
- 『抗議して生き残ろう 私の反核平和論』(日本評論社) 1987年
- 『小中陽太郎のアメリカン・コラム』(研究社出版) 1988年
- 『TVニュース戦争 これがキャスターだ!!』(東京新聞出版局) 1988年
- 『小中陽太郎の「歴史」の時間ですよ 歴史教科書を10倍楽しむ法』(新人物往来社) 1988年
- 『ルポ司法試験』(日本評論社) 1989年
- 『ニッポン・メジャー・リーグ論 日米構造摩擦野球編』(エイデル研究所) 1991年
- 『正義は川の流れのように』(日本基督教団出版局) 1995年
- 『笑うな! わが中年パソコン術 "負けられない"と感じたときからインターネットまで』(青春出版社、プレイブックス) 1996
- 『外国の教科書に、日本はどう書かれているか 韓国、中国、アメリカの歴史教科書を読み比べてみたら…』(ごま書房) 1997年
- 『青春の夢 風葉と喬太郎』(平原社) 1998年
- 『異文化・非言語・グローバルコミュニケーション』(平原社) 1999年
- 『58歳からの“知"の愉しみ もう一度人生を磨き直すために』(青春出版社) 2000年
- 『こんなに面白い聖書のはなし 3時間で“こころ"が豊かになる』(青春出版社) 2000年
- 『今こそ平和を実現する』(日本キリスト教団出版局) 2003年
- 『ラメール母』(平原社) 2004年
- 『一人ひとりのマスコミ』(創森社) 2007年
- 『翔べよ源内』(平原社) 2012年
- 『上海物語 あるいばゾルゲ少年探偵団』(未知谷) 2016年
共編著
[編集]- 『対決・刑法一七五条 「四畳半襖の下張」模索舎裁判』(五味正彦, 柘植光彦共編、亜紀書房) 1977年
- 『討論 青年にとって労働とは何か 転形期における青年労働者の意識』(編、三一新書) 1978年
- 『東大法学部 - その虚像と実像』(現代評論社) 1978年
- 『就職 - その虚像と実像』(編、現代評論社) 1980年
- 『娘がグローブを買う日 父と娘、33の往復書簡』(小中さつき、主婦の友社) 1991年
- 『メディア・リテラシーの現場から』(風媒社) 2001年
翻訳
[編集]- 『この本を盗め』(アビー・ホフマン、都市出版社) 1972年
- 『エヴァの日記 - スペインの獄舎から』(エヴァ・フォレスト、時事通信社) 1978年、のち岩波同時代ライブラリー
- 『閉ざされた扉のかげで 家族間の愛と暴力』(M・ストロース他、新評論) 1981年
- 『折れた黒バット ジョー・ジャクソンとブラック・ソックス事件』(ドナルド・グロップマン、ベースボール・マガジン社) 1984 ISBN 4-583-02615-3
- 『ハレー彗星フィーバー - 凶星がもたらす世紀末の恐怖』(ドナルド・グロップマン、サンケイ出版) 1986年
- 『蟻』(ベルナール・ウェルベル、森山隆共訳、ジャンニ・コミュニケーションズ) 1995年、のち角川文庫
- 『蟻の時代』(ウェルベル、森山隆共訳、ジャンニ・コミュニケーションズ) 1996年、のち角川文庫
- 『ほんとうに知りたいこと ガンをのりこえた最初の一年』(マック・ターネィジ, アン・ターネィジ、サンディー美恵共訳、日本基督教団出版局) 1996年
出演テレビ番組
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q “小中 陽太郎 | 兵庫ゆかりの作家”. ネットミュージアム兵庫文学館 : 兵庫県立美術館. 2022年5月25日閲覧。
- ^ マスコミ九条の会(よびかけ人はだれですか)
- ^ “作家の小中陽太郎さん死去、90歳 ベ平連の活動やペンクラブ理事も”. 朝日新聞デジタル (2024年12月3日). 2024年12月3日閲覧。
- ^ 小中陽太郎さん死去 作家、評論家 - 共同通信 2024年12月3日
- ^ 元SMAP「育ての母」が「フジテレビ敏腕広報」を引き抜いた