フロラン・ド・クロクス
フロラン・ド・クロクスあるいはフロラン・ド・クロー(Florent de Crox, 生没年未詳)は、16世紀フランスの占星術師である。同時代の医師・占星術師ノストラダムスに便乗して、自著の著者名に「故ミシェル・ノストラダムス師の弟子」という肩書きを常につけていたが、ノストラダムス本人との接点は確認されていない。
著作
[編集]この人物による著作は4冊確認されているが、すべて暦書である[1]。
- 『1570年向けの暦』(Almanach, Pour l'An M.D.LXX., 1569年頃)
- 『1583年向けの暦と占筮』(Almanach et Pronostication pour l'an 1583., 1582年頃)
- 『1586年向けの暦書あるいは改訂された天文暦』(Almanach, ou Ephemeride Reformez pour l'An de grace, mil cinq cens quatre vingts & six, 1585年頃)
- 『閏年である1596年向けの暦』(Almanach pour L'an de Bissexte, M.D.IIII.XX.XVI., 1595年頃)
これら以外の年にも暦書を刊行していた可能性は否定できないが、確認されていない。
経歴
[編集]この人物の経歴は一切明らかになっていない。同時代の書誌学者ラ・クロワ・デュ・メーヌは、パリの医学博士ジャン・ル・プルチエ(Jean le Peletier)だとしていた[2]。ただし、ラ・クロワ・デュ・メーヌの書誌には、ジャン・ル・プルチエという人物は載っていない。
18世紀の段階でこのジャン・ル・プルチエは、コレージュ・ド・ナヴァルの神学教授ジャン・ペルチエ(Jean Pelletier)を兄に持つ著名な詩人ジャック・ペルチエ(ジャック・ペルチエ・デュ・マン, 1517年-1582年)のことだとする見解が存在していた[3]。日本では高田勇がこの見解を支持している[4]。
他方で、ピエール・ブランダムールは、ラ・クロワ・デュ・メーヌが指摘したのはあくまでもジャン・ル・プルチエであって、ペルチエ・デュ・マンと混同すべきではないと指摘している[5]。なお、現在のフランス国立図書館には、ジャン・ル・プルチエ名義の著書が1冊所蔵されているが[6]、ラ・クロワ・デュ・メーヌの言っていたのと同一人物かは定かではない。
なお、ブランダムールは Crox を「クロー」と読み、ノストラダムス2世が自分以外の偽ノストラダムスを批判する時に挙げた「ノストラダムスがいた地域の名を姓に使っている者」は、このクロクスを仄めかしたものではないかと指摘している[5]。ノストラダムスが晩年に暮らしていた町サロンはクロー地方(Crau)にあったからである。
脚注
[編集]- ^ 最初の2つに関してはRobert Benazra, Répertoire chronologique nostradamique(1545-1989), Paris; Guy Tredaniel,1990, pp.91 & 115 ; Michel Chomarat, Bibliographie Nostradamus XVIe-XVIIe-XVIIIe siècles, Baden-Baden ; Valentin Koerner,1989, pp.63-64 & 75 などを参照のこと。後2つに関しては大英図書館に所蔵されている。
- ^ La Croix du Maine et Antoine Du Verdier, Les bibliothèques françoises de La Croix du Maine et de Du Verdier, Tome 2, 1772, p.296
- ^ ibid., p.297
- ^ 高田勇「フランス文学史の中のノストラダムス」『ノストラダムスとルネサンス』p.46
- ^ a b Pierre Brind'Amour, Nostradamus Astrophile, Klincksieck, 1993, pp.57-58
- ^ Jean le Peletier, Récit du procès d'entre damoiselle Catherine de Chavigné, veuve de... Charles Blanchard,... sieur de la Blanchardaye,... contre François Heaume, dit Cheverue, Antoine Grimault, dit Barboire, Paul de Beaubois, dit Poullain..., s.l., 1576