ブルーノ・ツー・イーゼンブルク・ウント・ビューディンゲン
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ブルーノ Bruno | |
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イーゼンブルク=ビューディンゲン侯 | |
在位 | 1861年 - 1906年 |
出生 |
1837年6月14日 ビューディンゲン |
死去 |
1906年1月26日(68歳没) ビューディンゲン |
配偶者 | マティルデ・ツー・ゾルムス=ホーエンゾルムス=リッヒ |
ベルタ・ツー・カステル=リューデンハウゼン | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | イーゼンブルク家 |
父親 | イーゼンブルク=ビューディンゲン侯エルンスト・カジミール2世 |
母親 | テクラ・ツー・エアバッハ=フュルステナウ |
ブルーノ・ツー・イーゼンブルク・ウント・ビューディンゲン(Bruno Fürst zu Ysenburg und Büdingen, 1837年6月14日 - 1906年1月26日)は、ドイツ・ヘッセン大公国のシュタンデスヘル。イーゼンブルク=ビューディンゲン侯(在位:1861年 - 1906年)。全名はブルーノ・カジミール・アルベルト・エミール・フェルディナント(Bruno Casimir Albert Emil Ferdinand)。
生涯
[編集]イーゼンブルク=ビューディンゲン侯エルンスト・カジミール2世とその妻のエアバッハ=フュルステナウ伯爵夫人テクラ(1815年 - 1874年)の間の第1子、長男として生まれた。1861年に父の後を継いで侯爵家の家長となり、同時に世襲のヘッセン大公国議会(Landstände des Großherzogtums Hessen)の第1院(貴族院)議員となった。1878年 - 1889年まで同議会の上院副議長を、1889年から1900年まで上院議長を務めた。1906年に死去し、侯爵家の家督は長男のヴォルフガングが継いだ。
子女
[編集]1862年7月13日にリッヒ(現在のドイツ領ヘッセン州ギーセン郡)において、ゾルムス=ホーエンゾルムス=リッヒ侯子フェルディナントの娘マティルデ(1842年 - 1867年)と結婚し、間に2人の娘をもうけたが、1867年に死別した。
- ヘートヴィヒ(1863年 - 1925年) - 1883年にシュトルベルク=ロスラ侯ボートと結婚、1902年にシュトルベルク=ロスラ伯クーノ(前夫の弟)と再婚
- エリーザベト(1864年 - 1946年) - 1889年、ルドルフ・フォン・テュンゲン男爵と結婚
1869年9月30日にリューデンハウゼン(現在のバイエルン州キッツィンゲン郡)において、カステル=リューデンハウゼン伯爵夫人ベルタ(1845年 - 1927年)と再婚し、間に1男7女の8人の子女をもうけた。
- エンマ(1870年 - 1944年) - 1898年、ゾルムス=ラウバッハ伯オットーと結婚
- マリー(1875年 - 1952年)
- ヴォルフガング(1877年 - 1920年) - イーゼンブルク=ビューディンゲン侯
- テクラ(1878年 - 1950年) - 1901年、コラルト・エ・サン・サルヴァトーレ公マンフレーディ5世と結婚
- マティルデ(1880年 - 1947年) - 1907年、コルネリウス・フォン・ハイル=ヘルンスハイム男爵と結婚
- ヘレーネ(1881年 - 1951年)
- ヘルタ(1883年 - 1972年) - 1920年、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公子アルブレヒトと結婚
- アンナ(1886年 - 1980年) - 1911年にリッペ=ヴァイセンフェルト伯家家長エルンストと結婚、1922年にリッペ侯レオポルト4世と再婚
参考文献
[編集]- Jochen Lengemann: MdL Hessen 1808–1996, 1996, ISBN 3-7708-1071-6, Seite 421
Weblinks
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、Bruno zu Ysenburg-Büdingenに関するカテゴリがあります。
- Ahnentafel