ブレダ (フン族)
ブレダ(Bleda、ギリシャ語:Βλήδας[1]またはΒλέδας[2]、390年頃 - 445年頃)は、フン族の共同王の一人。もう一人の王は有名なアッティラである。
生涯
[編集]4世紀にヴォルガ川東方から現れた遊牧民のフン族は、アラン族、ゴート族を征服して東西ローマ帝国領に侵入した。433年には西ローマ帝国の将軍アエティウスとの取引により、パンノニア領有を認められた。
ブレダは390年頃にフン族の王族ムンズクの息子として生まれた。434年に伯父のルーア王が死去し、ブレダとアッティラの兄弟がフン族の王となった。
即位当初、ブレダとアッティラは東ローマ帝国と条約を結んで貢納金を倍額とさせ、フン族からの逃亡者たちを送還させた。その後数年間は東ローマ帝国との間で和平が保たれていたが、439年に和平は破れ、フン族は東ローマ帝国領へ侵入しイリュリア諸都市を破壊して略奪した。
東ローマ帝国は軍隊をシチリアから呼び寄せて対抗したが、フン族は443年に再び東ローマ帝国領へ侵攻、東ローマ帝国軍を撃破してコンスタンティノープルへ迫った。抗う術を失った皇帝テオドシウス2世は、多額の貢納金の支払いを認める講和を余儀なくされた。
ブレダの人物像を伝える記録は乏しく[3]、僅かにツェルコというムーア人の小人にまつわる逸話が残っているのみである。ブレダはツェルコに道化をさせて楽しみ、彼が逃亡すると激怒して捜させた。ツェルコを捕らえ逃亡した理由を質すと、彼は「妻を与えてくれないからです」と答えた。ブレダはコンスタンティノープルから侍女を一人寄こさせようと誓ったという[4]。
この和平期間中の445年頃にブレダは死去した。狩猟中の事故で死んだともされるが、真相は不明であり、一般的には弟のアッティラによって殺されたと信じられている[5][6]。ブレダの死により、彼に従属していた諸部族はアッティラの支配下に入り、アッティラがフン族唯一の王となった。
ブレダの死後、プリスクスら東ローマ帝国の使節がブレダの妻の一人が支配する村に立ち寄り、歓待された記録が残っている[7]。
小人のツェルコは449年に西ローマ帝国の将軍アエティウスへの贈物にされ、アエティウスは彼を元の主人に返している[8]。
マジャル人(ハンガリー人)は自らをフン族の後継者と信じており、ハンガリー国歌はハンガリー国民を「ムンズク(Bendegúz:ブレダとアッティラの父)の血筋」(Bendegúznak vére)と詠っている。ハンガリーの首都ブダペストのブダ地区は、ブレダ(ハンガリー語でBuda)の名に由来する[9]。
注釈
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「アッチラとフン族」(ルイ・アンビス著、安斎和雄訳、白水社、1973年)ISBN 978-4560055366
- 「アッチラ王とフン族の秘密―古代社会の終焉」(ヘルマン・シュライバー著、金森誠也翻訳、佑学社、1977年)
- 「フン族―謎の古代帝国の興亡史」(E・A・トンプソン著、木村伸義訳、法政大学出版局、1999年)ISBN 978-4588371080
- 「図説 蛮族の歴史 ~世界史を変えた侵略者たち」(トマス・クローウェル著、 蔵持不三也訳、原書房、2009年)ISBN 978-4562042975