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ブレンダ・シュルツ=マッカーシー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ブレンダ・シュルツ=マッカーシー
Brenda Schultz-McCarthy
基本情報
国籍 オランダの旗 オランダ
出身地 ハールレム
居住地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
フロリダ州ジュノー・ビーチ
生年月日 (1970-12-28) 1970年12月28日(53歳)
身長 188cm
体重 77kg
利き手
ツアー経歴
デビュー年 1986年
引退年 1999年
(2006年-2008年復帰)
ツアー通算 16勝
シングルス 7勝
ダブルス 9勝
生涯通算成績 641勝470敗
シングルス 403勝293敗
ダブルス 238勝177敗
生涯獲得賞金 $2,620,024
4大大会最高成績・シングルス
全豪 4回戦(1989・95・96)
全仏 4回戦(1988・93)
全英 ベスト8(1995)
全米 ベスト8(1995)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト4(1990・92)
全仏 ベスト4(1989)
全英 ベスト4(1995)
全米 準優勝(1995)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 9位
ダブルス 7位

ブレンダ・シュルツ=マッカーシー(Brenda Schultz-McCarthy、1970年12月28日 - )は、オランダハールレム出身の女子プロテニス選手。主に1990年代に活躍し、当時の女子プロテニス界で最速サーブを誇る“ビッグ・サーバー”タイプの選手として知られた。WTAツアー通算でシングルス7勝、ダブルス9勝を挙げ、1995年全米オープンで女子ダブルス準優勝者になった。自己最高ランキングはシングルス9位、ダブルス7位。1995年に結婚し、以降は既婚選手として、自分の姓「シュルツ」(Schultz)と夫の姓「マッカーシー」(McCarthy)を併用して活動した。夫のショーン・マッカーシー(Sean McCarthy)はアメリカ人で、かつてはシンシナティ大学のアメリカンフットボール選手だった。

9歳からテニスを始め、1986年にプロ転向。1988年から女子テニス国別対抗戦・フェドカップ(当時の名称は「フェデレーションカップ」で、1995年より現行の「フェドカップ」に名称変更)のオランダ代表選手に選ばれる。初期の活躍は、1988年全仏オープン1989年全豪オープンで4回戦進出があった。1990年1991年には、2年連続でウィンブルドンの4回戦に進出した。ダブルスでは1989年全仏オープン1990年全豪オープンの2大会で、アンドレア・テメシュバリハンガリー)と組んだ準決勝進出がある。1991年8月、シュルツはアメリカの「OTBオープン」で女子ツアーのシングルス初優勝を達成した。1992年全豪オープンで、ステファニー・レイヒ(アメリカ)と組んで2年ぶり2度目の女子ダブルス準決勝進出がある。

1995年4月8日、ブレンダ・シュルツはショーン・マッカーシーと結婚し、2つの姓を併用して「ブレンダ・シュルツ=マッカーシー」と名乗るようになる。この年に両親の双方を亡くす不幸も経験したが、彼女の最盛期はこの年に訪れ、ウィンブルドン全米オープンの2大会連続でシングルス準々決勝に進出した。ウィンブルドンでは女子ダブルスでガブリエラ・サバティーニアルゼンチン)とペアを組んでベスト4に進出し、シングルス準々決勝で第2シードのアランチャ・サンチェス・ビカリオと顔を合わせる。全米オープンのシングルスでは、4回戦で第6シードだった日本伊達公子を 7-5, 3-6, 6-2 で破り、続く準々決勝で第4シードのコンチタ・マルティネスに敗れた。(伊達はこの敗戦により、全米オープンで3年連続ベスト8入りのチャンスを逃した。)この大会の女子ダブルスで、シュルツ・マッカーシーはレネ・スタブスオーストラリア)と組んで決勝に進出した。2人は当時最強を誇ったジジ・フェルナンデスプエルトリコ)&ナターシャ・ズベレワベラルーシ)組に 5-7, 3-6 のスコアで敗れ、シュルツ=マッカーシーは全米女子ダブルス準優勝者になった。1997年10月、彼女はカナダケベックシティ大会で最後のシングルス優勝を飾った。

ブレンダ・シュルツはオリンピックのオランダ代表選手として、1992年バルセロナ五輪1996年アトランタ五輪の2度出場した。バルセロナ五輪では、シングルス2回戦・ダブルス1回戦敗退に終わる。2度目の出場だったアトランタ五輪では、マノン・ボーラグラフとのダブルスで準決勝に進出した。シュルツ=マッカーシーとボーラグラフは、女子ダブルス準決勝でアメリカ代表のジジ・フェルナンデスメアリー・ジョー・フェルナンデス組に敗れた後、準決勝敗退2組による「銅メダル決定戦」でスペイン代表のアランチャ・サンチェス・ビカリオコンチタ・マルティネス組に 1-6, 3-6 で敗れ、オランダ代表としての銅メダルを逃した。

1990年から1997年までの間、シュルツ=マッカーシーのサービスは女子最高速度を誇っていた。1997年ウィンブルドンで、彼女はサービスの自己最高速度(時速197.9 km = 197.9 km/h)を出している。しかしこの年の秋からビーナス・ウィリアムズアメリカ)が台頭し、シュルツ・マッカーシーよりもはるかに安定した超高速サーブを放つようになる。ビーナスの台頭とほぼ同時に、シュルツ・マッカーシーのテニスも衰えが目立ち始めた。1998年はシーズンの半年しか試合をこなせず(年間3勝10敗)、全仏オープンの1回戦敗退後に背中の手術を受けた。その1年後、1999年全仏オープン1回戦敗退を最後に、ブレンダ・シュルツ=マッカーシーは28歳で現役を引退した。

2005年、シュルツ・マッカーシーは1997年以来8年ぶりのフェドカップに出場し、2006年からのツアー復帰を表明した。復帰後最初に出場したツアー戦は、日本東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント予選会であった。この年はシンシナティ・マスターズシングルス予選一回戦でジュリア・コーエン(アメリカに2-6,4-6で敗れるも、その試合で1998年に記録した女子サービス最高速度204kmを上回る209kmのサービスを叩き出し、サービス最速記録を再び手中に入れる等大きな話題となった[1]。本来はこの年限りの参戦を予定していたが、本人の予想以上の好調さから方針を転換し、2008年まで3年間下部ツアーであるサーキット大会を中心に転戦を続けた。

脚注

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  1. ^ Zvonareva Captures Cincy Title”. Tennis-X.com. (2006年7月24日). 2010年6月14日閲覧。

外部リンク

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