コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

プテリアの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
プテリアの戦い
Battle of Pteria
キュロス2世のリュディア遠征中
紀元前547年
場所カッパドキアプテリア
(現在のトルコの旗 トルコヨズガト県ケルケネスen:Kerkenes))

北緯39度55分00秒 東経35度20分00秒 / 北緯39.9167度 東経35.3333度 / 39.9167; 35.3333座標: 北緯39度55分00秒 東経35度20分00秒 / 北緯39.9167度 東経35.3333度 / 39.9167; 35.3333
発端リュディアのプテリア侵攻。
結果 引き分け(決着つかず)
衝突した勢力
リュディア王国 アケメネス朝
指揮官
クロイソス(リュディア王) キュロス2世
戦力
95,000[1] 20,000[2]
被害者数
甚大 甚大
プテリアの戦いの位置(West and Central Asia内)
プテリアの戦い
戦いのおこったおおよその位置

プテリアの戦い古代ギリシア語: Πτερία)紀元前547年に、キュロス大王ペルシャ軍とクロイソスリュディア軍の間で戦われた戦闘である。決定的な勝敗のつかぬまま両軍はその大きな犠牲に苛まれた。

背景

[編集]
ハリュス(クズルウルマク)川の流域地図。

キュロスによるの突然の蜂起(ペルシア反乱)、そしてそれによる長年の宿敵たりしメディアの滅亡(紀元前550年)を聞知したクロイソスは、このことを版図の東方拡大のために[3]利用せんと考え、カルデア(当時の王はナボニドゥス)、エジプト(第26王朝、当時の王はイアフメス2世)やスパルタを初めとするギリシアの諸都市国家と同盟を結んだ[4]。クロイソスは侵攻に先立ち、デルファイ神託に助言を求めたとされ、信託は「クロイソス王がハリュス川(現クズルウルマク川)を渡れば、(キュロスの)大帝国が滅びるだろう」と示唆したという[5]

クロイソスはこの言葉を好意的に受け止め、戦争を開始することにしたが、皮肉にも最終的にはキュロスのでなく自分の帝国を滅ぼすことになる[5]。クロイソスはカッパドキアの侵略を劈頭に遠征を開始、信託の通りハリュスを渡河し、当時一帯の中心地で要塞として機能していたプテリアを占領した[6]。プテリアの住民は奴隷にされたという[7]

これを受け、キュロスはリディアの侵攻を食い止めるべく軍を進めた[8]。そしてメソポタミア北部を勢力下に加え、途中アルメニア、カッパドキア、キリキア[注釈 1]の自発的な降伏を受け入れた[8]。なお、クロイソスがアケメネス朝攻撃を決意したのにはメディアとその運命を共にした義兄弟のアステュアゲス[注釈 2]の弔い合戦をするためであったとする説もある[3]

戦い

[編集]

両軍は陥落した都市の近辺で相見えた[9]。激しい戦いは日暮れまで続いたものと思われるが、終始決着はつかなかったようである[9]。両軍ともかなりの死傷者を出し、その後、数で劣るクロイソスはハリュス川を渡って撤退した[9]。クロイソスの撤退は、冬を利用して作戦を中断し、同盟国であるバビロニア、エジプト、就中スパルタからの援軍の到着を待つという戦略的な決定であった[4][4]

その後

[編集]

しかし冬が到来しても、キュロスはリュディアの都サルディスへの進軍を継続した[10]。クロイソスの軍勢が離散したことで、リディアはキュロスの予期せぬ冬の遠征の矢面に立たされることとなり、キュロスは幾許ならずしてクロイソスを追ってサルディスへ戻ることになった[10]。この直後、12月にテュンブラの戦いが発生、これにキュロスが大勝利を収めたことでリュディアの滅亡が決定的となった[11]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ トルコ南部の地中海に面する一地域で、キプロス島の真北、シリアのすぐ北西にあたる。以後、紀元前334年アレクサンドロス大王に征服されるまでペルシア領であった。
  2. ^ 最後のメディア王。クロイソスの姉妹であるアリュエニスの夫であった。

出典

[編集]
  1. ^ Tucker 2010, p. 563.
  2. ^ Eggenberger 1985, p. 386.
  3. ^ a b Herodotus, The Histories, (Penguin Books, 1983), I. pp. 57, 69
  4. ^ a b c Briant 2002, p. 35.
  5. ^ a b Mikalson 2003, p. 56.
  6. ^ Brosius 2006, p. 11.
  7. ^ Allen 1910, p. 315.
  8. ^ a b Shahbazi 2012, p. 123.
  9. ^ a b c Herodotus 1998, p. 35.
  10. ^ a b Young 1988, p. 34.
  11. ^ Young 1988, p. 34-35.

参考文献

[編集]
  • Allen, T.W. (1910). “The Homeric Catalogue”. The Journal of Hellenic Studies (The Society for the Promotion of Hellenic Studies) 30: 292-322. 
  • Briant, Pierre (2002). From Cyrus to Alexander: A History of the Persian Empire. Pennsylvania University Press 
  • Brosius, Maria (2006). The Persians. Routledge 
  • Eggenberger, David (1985). An Encyclopedia of Battles: Accounts of Over 1,560 Battles from 1479 B.C. to the Present. Courier Dover Publications 
  • Herodotus (1998). The Histories. Oxford University Press 
  • The Oxford Handbook of Ancient Anatolia (10,000-323 BCE). Oxford University Press. (2011) 
  • Mikalson, Jon D. (2003). Herodotus and Religion in the Persian Wars. University of North Carolina 
  • Shahbazi, A. Shapour (2012). “The Achaemenid Persian Empire (550-330 BCE)”. In Daryaee, Touraj. The Oxford Handbook of Iranian History. Oxford University Press 
  • Tucker, Spencer C. (2010). Battles That Changed History: An Encyclopedia of World Conflict. ABC-CLIO 
  • Young, T. Cuyler (1988). “The early history of the Medes and the Persians and the Achaemenid empire to the death of Cambyses”. The Cambridge Ancient History. IV: Persia, Greece and the Western Mediterranean, c.525-479 B.C.. Cambridge University Press 

関連項目

[編集]