プブリウス・デキウス・ムス (紀元前279年の執政官)
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プブリウス・デキウス・ムス P. Decius P. f. P. n. Mus | |
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出生 | 不明 |
死没 | 不明 |
出身階級 | プレブス |
氏族 | デキウス氏族 |
官職 |
執政官 I(紀元前279年) 補充執政官 II(紀元前265年) |
指揮した戦争 | アスクルムの戦い(紀元前279年) |
プブリウス・デキウス・ムス(ラテン語: Publius Decius Mus、紀元前3世紀、生没年不明)は共和政ローマのプレブス出身の政治家・将軍。祖父、父共に自軍の勝利のために自らを生け贄に捧げた伝説を持つ。
経歴
[編集]最初のコンスルシップ
[編集]デキウスは同名の父親の子であり、紀元前279年に執政官となった。同年のアスクルムの戦いでエピロス王ピュロスと戦い、敗れはしたものの、キケロが「敵の武器に身を投げ出」したと述べたように奮戦し、後に「ピュロスの勝利」と言われるほどに敵に多くの損害を強いた[1][2]。
二度目のコンスルシップ
[編集]紀元前265年、ウォルシニでは解放奴隷が当地の元老院の実権を握り、元の主人を過酷に扱っていたためローマへ救援を求めた。派遣された彼は解放奴隷の多くを殺し、残りは再び奴隷として元の主人に戻したという[3]。ヨハネス・ゾナラスなどの記録によると、最初当年の執政官クィントゥス・ファビウス・マクシムス・グルゲスが送り込まれたものの、負傷し死亡してしまったため、デキウスが補充執政官として選出され代わりに送り込まれた。
註
[編集]参考文献および参考URL
[編集]- アウレリウス・ウィクトル著、松原俊文訳、「ローマ共和政偉人伝 De viris illustribus urbis Romae 解題」、『地中海研究所紀要 第4号』所収、2006年(http://www.waseda.jp/prj-med_inst/bulletin.html)
- マルクス・トゥリウス・キケロ著、木村健治・岩谷智訳、『キケロー選集12 トゥスクルム荘対談集』、岩波書店、2002年
- プルタルコスの「ピュロス伝」の英訳(プロジェクト・グーテンベルク内)
- William Smith, Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology
公職 | ||
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先代 プブリウス・ウァレリウス・ラエウィヌス ティベリウス・コルンカニウス |
ローマの執政官 I 紀元前279年 同僚はプブリウス・スルピキウス・サウェッリオ |
次代 ガイウス・ファブリキウス・ルスキヌス クィントゥス・アエミリウス・パプス |
先代 クィントゥス・ファビウス・マクシムス・グルゲス ルキウス・マミリウス・ウィトゥルス |
ローマの補充執政官 II 紀元前265年 同僚はルキウス・マミリウス・ウィトゥルス |
次代 アッピウス・クラウディウス・カウデクス マルクス・フルウィウス・フラックス |