コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ヘンリー・ウィラビー (第6代ミドルトン男爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウォラトン英語版セント・レオナーズ教会英語版にある第6代ミドルトン男爵の記念碑、2013年撮影。

第6代ミドルトン男爵ヘンリー・ウィラビー英語: Henry Willoughby, 6th Baron Middleton1761年4月24日1835年6月19日)は、グレートブリテン貴族

生涯

[編集]

第5代ミドルトン男爵ヘンリー・ウィラビーと妻ドロシー(Dorothy、旧姓カートライト(Cartwright)、1808年7月19日没、ジョージ・カートライトの娘)の息子として、1761年4月24日に生まれ、5月28日にヨーク・ミンスターで洗礼を受けた[1]

1800年6月14日に父が死去すると、ミドルトン男爵位を継承した[1]貴族院では1820年にジョージ4世キャロライン・オブ・ブランズウィックへの痛みと罰法案英語版に賛成票を投じた[2]

建築家ジェフリー・ワイアットヴィル英語版を招聘して、自領のウォラトン・ホール英語版の大規模改築を行った[3]

1796年11月29日にノッティンガムシャー副統監に任命され[4]、1803年7月31日に再び任命された[5]。また、サットン・コールドフィールド執事長英語版を務めた[1]。1803年11月19日、ノッティンガムシャー志願兵隊(A Corps of Volunteers in Nottinghamshire)の司令官(Lieutenant Colonel-Commandant)に任命された[6]

1835年6月19日に死去、叔父フランシス(1727年 – 1835年以前)の息子ディグビーが爵位を継承した[1][7]

ウォラトン英語版セント・レオナーズ教会英語版に第6代ミドルトン男爵の記念碑がある。

家族

[編集]

1793年8月21日、ジェーン・ローリー(Jane Lawley、1769年ごろ – 1852年12月17日、第5代準男爵サー・ロバート・ローリー英語版の娘)と結婚したが、2人の間に子供はいなかった[1][7]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e Cokayne, George Edward, ed. (1893). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (L to M) (英語). Vol. 5 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 312.
  2. ^ "Preamble". Parliamentary Debates (Hansard) (英語). House of Lords. 10 November 1820. col. 1744.
  3. ^ "Biography of Henry Willoughby, 6th Baron Middleton (1761-1835)". University of Nottingham (英語). 2021年11月23日閲覧
  4. ^ "No. 13956". The London Gazette (英語). 29 November 1796. p. 1159.
  5. ^ "No. 15617". The London Gazette (英語). 3 September 1803. p. 1157.
  6. ^ "No. 15645". The London Gazette (英語). 17 November 1803. p. 1594.
  7. ^ a b Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth P., eds. (1915). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (77th ed.). London: Harrison & Sons. pp. 1392–1393.
名誉職
先代
第4代エイルズフォード伯爵
サットン・コールドフィールド執事長英語版
1812年 – 1835年
次代
第5代エイルズフォード伯爵英語版
グレートブリテンの爵位
先代
ヘンリー・ウィラビー
ミドルトン男爵
1800年 – 1835年
次代
ディグビー・ウィラビー