ヘンリー・ウィラビー (第6代ミドルトン男爵)
第6代ミドルトン男爵ヘンリー・ウィラビー(英語: Henry Willoughby, 6th Baron Middleton、1761年4月24日 – 1835年6月19日)は、グレートブリテン貴族。
生涯
[編集]第5代ミドルトン男爵ヘンリー・ウィラビーと妻ドロシー(Dorothy、旧姓カートライト(Cartwright)、1808年7月19日没、ジョージ・カートライトの娘)の息子として、1761年4月24日に生まれ、5月28日にヨーク・ミンスターで洗礼を受けた[1]。
1800年6月14日に父が死去すると、ミドルトン男爵位を継承した[1]。貴族院では1820年にジョージ4世妃キャロライン・オブ・ブランズウィックへの痛みと罰法案に賛成票を投じた[2]。
建築家ジェフリー・ワイアットヴィルを招聘して、自領のウォラトン・ホールの大規模改築を行った[3]。
1796年11月29日にノッティンガムシャー副統監に任命され[4]、1803年7月31日に再び任命された[5]。また、サットン・コールドフィールド執事長を務めた[1]。1803年11月19日、ノッティンガムシャー志願兵隊(A Corps of Volunteers in Nottinghamshire)の司令官(Lieutenant Colonel-Commandant)に任命された[6]。
1835年6月19日に死去、叔父フランシス(1727年 – 1835年以前)の息子ディグビーが爵位を継承した[1][7]。
ウォラトンのセント・レオナーズ教会に第6代ミドルトン男爵の記念碑がある。
家族
[編集]1793年8月21日、ジェーン・ローリー(Jane Lawley、1769年ごろ – 1852年12月17日、第5代準男爵サー・ロバート・ローリーの娘)と結婚したが、2人の間に子供はいなかった[1][7]。
出典
[編集]- ^ a b c d e Cokayne, George Edward, ed. (1893). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (L to M) (英語). Vol. 5 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 312.
- ^ "Preamble". Parliamentary Debates (Hansard) (英語). House of Lords. 10 November 1820. col. 1744.
- ^ "Biography of Henry Willoughby, 6th Baron Middleton (1761-1835)". University of Nottingham (英語). 2021年11月23日閲覧。
- ^ "No. 13956". The London Gazette (英語). 29 November 1796. p. 1159.
- ^ "No. 15617". The London Gazette (英語). 3 September 1803. p. 1157.
- ^ "No. 15645". The London Gazette (英語). 17 November 1803. p. 1594.
- ^ a b Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth P., eds. (1915). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (77th ed.). London: Harrison & Sons. pp. 1392–1393.
名誉職 | ||
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先代 ヘンリー・ウィラビー |
ミドルトン男爵 1800年 – 1835年 |
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