ベルグテイ
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ベルグテイ(1172年? - 1251年?)[1]は、モンゴル帝国の皇族である。 イェスゲイ・バアトルの側室ソチゲル[2][3]の子で、ベグテルの同母弟で、チンギス・カン(テムジン)の異母弟にあたる。
漢文史料では別里古台、別勒古歹、便古得那(顔)と表記される。フランスの東洋学者ポール・ペリオによれば、名前はモンゴル語で「印」「質草」を意味する「belge」のテュルク語形であるbelgüに由来するとされる[1]。
生涯
[編集]兄のベグテルとともに体格が大きく、腕力に優れた人物と伝えられる[1]。父の死後に同母兄のベグテルが後継者争いで、異母兄のテムジンに射殺されると、以降からテムジンに従った。
創成期のモンゴルにおいては、メルキト族討伐、ナイマン族討伐に従軍した。1206年のチンギス・カンの第二次即位ではジャルグチに任じられ、宗族を監督した[4]。オノン川、ケルレン川の流域を遊牧地とし、3,000人の部民を領有した[4]。後にジョチ・カサル、カチウンの子イルチダイ、テムゲ・オッチギンらチンギスの同母弟とその子孫と同様に遼東に分領(ウルス)を与えられる。ベルグテイは広寧路と恩州二城を領有し、広寧王を称した。
他の兄弟よりも長寿であり、1251年のモンケの即位式にも出席したといわれる[1]。
『元史』はカルトゥク(罕禿忽)、イェス・ブカ(也速不花)、クウン・ブカ(口温不花)の三子があったと記すが、『集史』はジャウドゥ(Jāūtūجاوتو)という息子が後を継いだとする。1460年代の北元の有力者モーリハイ(毛里孩)はベルグテイの末裔であり、モーリハイの子孫はアバガ部・アバガナル部という部族を形成した[5]。
ベルグテイ王家
[編集]- ベルグテイ(Belgütei,別里古台/Bīlgūtāī nūyānبیلگوتای نویان)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 井ノ崎隆興「ベルグティ」『アジア歴史事典』8巻収録(平凡社, 1961年)
- 『モンゴル秘史 1 チンギス・カン物語』(村上正二訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1970年)