ベルケ・ブカ
ベルケ・ブカ(モンゴル語: Berke buqa、中国語: 別里閣不花、? - 1314年)は、13世紀後半から14世紀初頭にかけてモンゴル帝国の華北方面タンマチ(辺境鎮戍軍)副司令官を務めた人物。『元史』などの漢文史料では別里閣不花(biélǐgé bùhuā)と記される。
『元史』には立伝されていないが、「忽神公神道碑銘」に「忽神(フーシン)公」としてその事蹟が記される。『新元史』には忽神公神道碑銘を元にした列伝が記されている。
概要
[編集]ベルケ・ブカは「四駿」と讃えられた建国の功臣ボロクルの一族で、ヒタイ(華北)方面タンマチの指揮官タガチャルの孫のミリチャルの次男で、兄にはアルクイがいた。 ミリチャルが早くに亡くなると弟のスンドゥタイが一時家長の地位を継ぎ、スンドゥタイが1276年(至元13年)に亡くなるとアルクイがその地位を継いだ[1]。アルクイは江西方面の経略を担当していたタチュが亡くなると、1281年(至元18年)に「江西道都元帥」の地位を継いだが、それから間もなくに急死してしまった[2]。
アルクイの死後にその地位を継承したのが弟のベルケ・ブカで、1282年(至元19年)に「江西道都元帥」となった[3]。同年、叛乱を起こした峒獠の董輝を討伐し、この功績により昭勇大将軍・蒙古軍万戸とされた[4]。1291年からは湖広方面に駐屯し、平章政事劉二バアトル(劉国傑)の指揮下で叛寇の討伐にも加わっている[3][5][6]。
1295年(元貞元年)にはモンゴル兵2千を率いて上都に駐留し[4]、同年8月には鎮国上将軍とされた。1298年(大徳2年)秋、モンゴル高原では西方のカイドゥに対抗するため駐留していた軍団がドゥアの奇襲を受けて大敗を喫するという事件が起こった。これを受けて駐留軍の総司令官ココチュが更迭され、新たにカイシャンが司令官に抜擢された。ベルケ・ブカもカイシャンに従ってモンゴル高原に赴くことになり、1299年(大徳3年)にハンガイ山脈西麓のチンカイ・バルガスン一帯で屯田を行うことになった[4]。1302年(大徳6年)には河南淮北蒙古軍都万戸府副都万戸とされて屯田を続け、1305年(大徳9年)には北方状勢が落ち着いたこともありようやく河南への帰還を許された。その後は目立った功績もなく、ベルケ・ブカは1314年(延祐元年)8月1日に亡くなり、平陽路解州聞喜県に葬られた。後に輔国上将軍・枢密副使・護軍の地位を贈られ、雲中郡公に追封され、襄懋と諡された[7]。
子孫
[編集]シリベキ
[編集]ベルケ・ブカにはジャライル氏出身のオルジェイ(完者)という夫人がおり、オルジェイは死後に平陽郡太夫人に封ぜられた。ベルケ・ブカとオルジェイの間にはシリベキ、シリギ、嵩寿という3人の息子がおり、その中で最も著名で父の地位を継いだのはシリベキであった。シリベキは父の亡くなった1315年(延祐2年)4月に明威将軍の称号と河南淮北蒙古軍都万戸府副都万戸の地位を継ぎ、1317年(延祐4年)9月には懐遠大将軍、1325年(泰定2年)には定遠大将軍と、順調に官位を進めた。「忽神公神道碑」が作成された1336年(後至元2年)5月時点では、昭毅大将軍であった。よく配下の士卒を遇したため、モンゴル兵・漢人兵双方ともシリベキの徳に服したという[8]。
フーシン部タガチャル家
[編集]- ボロクル・ノヤン(Boroqul noyan >博爾忽/bóĕrhū, بورقول نويان/būrqūl nūyān)
- 行省兵馬都元帥タガチャル(Taγačar >塔察児/tǎcháér)
- 行省兵馬都元帥ベルグテイ(Belgütei >別里虎䚟/biélǐhŭdǎi)
- 蒙古軍万戸ミリチャル(Miričar >密里察児/mìlǐcháér)
- 江西道都元帥アルクイ(Alqui >阿魯灰/ālŭhuī)
- イキレテイ(Ikiretei >亦乞列歹/yìqǐlièdǎi)
- 蒙古軍万戸ベルケ・ブカ(Berke buqa >別里閣不花/biélǐgé bùhuā)
- 江西道都元帥アルクイ(Alqui >阿魯灰/ālŭhuī)
- 蒙古軍万戸スンドゥタイ(Sondutai >宋都䚟/sòngdōudǎi)
- 蒙古軍万戸ミリチャル(Miričar >密里察児/mìlǐcháér)
- 行省兵馬都元帥ベルグテイ(Belgütei >別里虎䚟/biélǐhŭdǎi)
- 行省兵馬都元帥タガチャル(Taγačar >塔察児/tǎcháér)
脚注
[編集]- ^ 松田1987,53頁
- ^ 「忽神公神道碑銘」,「公之兄阿魯灰、襲将元軍、戦克有功。十八年、授江西道都元帥、薨」
- ^ a b 堤1992,56頁
- ^ a b c 松田1982,14頁
- ^ 松田1987,58頁
- ^ 「忽神公神道碑銘」,「十九年、公始襲父兄旧職。峒獠董輝等叛、討平之。授昭勇大将軍・蒙古軍万戸、佩以三珠虎符。三十年、以蒙古軍戍湖広、従平章政事劉二覇都、討叛寇、所至寧戢」
- ^ 「忽神公神道碑銘」,「元貞元年、将蒙古兵二千人、扈従上都。秋八月、加鎮国上将軍。職仍旧賜□□帯弓刀鞍轡 扈北幸。大徳三年、従武宗皇帝北征。著労勣。詔以所部兵屯田称海。六年、授河南淮北蒙古軍都万戸府副都万戸、仍屯田。九年、以北方寧、晏詔有司資力還河南、扈乗輿上京。延祐元年秋八月一日、薨。葬平陽解州聞喜晋原郷甘泉鎮西原之塋。泰定元年、贈輔国上将軍・枢密副使・護軍、追封雲中郡公、諡襄懋」
- ^ 「忽神公神道碑銘」,「夫人諱完者、姓札剌爾氏、封平陽郡太夫人。子男三人、長昔里伯吉、次昔里吉、次嵩寿。昔里伯吉、延祐二年夏四月、襲明威将軍、佩三珠虎符、河南淮北蒙古軍都万戸府副都万戸。四年秋九月、特加懐遠大将軍。泰定二年秋八月、進定遠大将軍。今至元再元之二年夏五月、進昭毅大将軍。性簡重明亮、善撫士卒。卒。四府両翼将吏、畏其威而服其徳、可謂能子而賢於□其家者也」