ベンジャミン・スミス・ライマン
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ベンジャミン・スミス・ライマン | |
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生誕 |
1835年12月11日 アメリカ合衆国 マサチューセッツ州ノーサンプトン |
死没 |
1920年8月30日(84歳没) アメリカ合衆国 ペンシルベニア州チェルトナム |
研究分野 | 鉱山学 |
研究機関 | ペンシルベニア州地質調査所 |
出身校 | ハーバード大学、フライベルク鉱山学校 |
プロジェクト:人物伝 |
ベンジャミン・スミス・ライマン(Benjamin Smith Lyman、1835年12月11日 - 1920年8月30日)は、アメリカ合衆国の鉱山学者で、お雇い外国人として日本に招かれた一人。日本名は来曼。
経歴
[編集]1835年にマサチューセッツ州のノーサンプトンで出生。父親は判事、母親は名家の娘[1]。ハーバード大学を修了後、アメリカ鉄鉱協会の会長だった叔父の助手となり、鉱山調査に関わる[1]。1859年にパリの鉱山学校、1861年にドイツのフライベルクにあるフライベルク鉱山学校(現在のフライベルク工科大学 (Technische Universität Bergakademie Freiberg))に留学し、鉱山学を学んだ。
ペンシルベニア州、インドなどの石油調査を終えたのち、1872年(明治5年)北海道庁のトーマス・アンチセルの後任として、開拓使次官黒田清隆との3年間契約で開拓使雇となる[1]。北海道開拓使の招待で来日、1876年(明治9年)まで北海道の地質調査に従事し、後に工部省の依頼で1876年から1879年の間、日本各地の石炭・石油・地質調査にあたった。1881年(明治14年)に帰国するまで山内徳三郎(山内堤雲の弟)、桑田知明(桑田立斎の子)をはじめとした自身の日本人助手に教育するなど日本の地質学に貢献した[1][2]。
帰国後はペンシルベニア州地質調査所次長に就任した。1895年に同所を退職し、1906年にフィリピンの鉱山調査に行く途上日本に立ち寄り、帰路に再訪日することを望んでいたが赤痢に悩まされ訪日できずに、ペンシルベニア州チェルトナムで1920年に死去。
関連項目
[編集]- お雇い外国人
- 幌内炭鉱
- 夕張炭鉱 - ライマンが石炭調査を行った場所にできた炭鉱。
- 北炭夕張炭鉱 - ライマンが石炭調査を行った場所にできた炭鉱。
- 夕張市 - 上記2つの炭鉱があった現在の市町村。
- 連濁 - 日本語の連濁に関して「ライマンの法則」と呼ばれるものがある。
- 来満峠 - 一部にライマンにちなんだ命名と記されている峠。実際には彼の来日以前からの歴史がある。ライマンはこの峠付近の山のスケッチを残している。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 今井功「地質調査事業の先覚者たち(4) 炭田・油田開発の貢献者-ライマン-」『地質ニュース』第111号、地質調査所、1963年11月、29-35頁。
- 屋名池誠「<ライマン氏の連濁論>原論文とその著者について」『百舌鳥国文』第11巻、大阪府立大学、1991年11月1日、doi:10.24729/00005119。