ペーター・シュールド・ヘルブランディー

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オランダの政治家
ペーター・シュールド・ヘルブランディー
Pieter Sjoerds Gerbrandy
ペーター・シュールド・ヘルブランディー (1941年)
生年月日 (1885-04-13) 1885年4月13日
出生地 Goëngaフリジア語版, オランダ
没年月日 1961年9月7日(1961-09-07)(76歳)
死没地 デン・ハーグ, オランダ
出身校 アムステルダム自由大学
所属政党 反革命党
配偶者
Hendrina Elisabeth Sikkel
(m. 1911; his death 1961)
子女 息子 (2人)、娘 (1人)

在任期間 1940年9月3日 - 1945年6月25日
元首 ウィルヘルミナ
在任期間 1948年7月27日 - 1956年7月3日

在任期間 1941年11月17日 - 1942年5月21日

在任期間 1945年2月23日 - 1945年6月25日
在任期間 1939年8月10日 - 1942年2月21日
第二院議員
(1956年10月23日 - 1959年3月20日)
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ペーター・シュールド・ヘルブランディー (Pieter Sjoerds Gerbrandyborn、生誕時は Pieter Gerbrandij1885年4月13日1961年9月7日) は、オランダ政治家法律家ピーテル・シュールズ・ヘルプランディとも表記。

1940年9月3日から1945年6月25日までオランダの首相を務めた。ドイツ占領期に、ウィルヘルミナ女王のもとで、ロンドンオランダ亡命政府英語版を率いた[1]反革命党英語版キリスト教民主アピールの前身の一つ)のメンバー。

生い立ち[編集]

ヘルブランディーは1885年4月13日、オランダフリースラント州スネーク近くのGoëngaフリジア語版の村で産まれた。彼は民族的にはフリジア人であり、名前はその伝統的な形式で、ペーターが名、シュールドが父称、ヘルブランディーが姓である。なお、ヘルブランディーという姓も父称に由来し、1811年12月30日に、ペーターの高祖父である Jouke Gerbrens (1769–1840) がこれを姓として名乗るようになった[2]

ペーターは1904年にアムステルダム自由大学に進み、法学を専攻した。1911年1月に法学の博士号を取得し、同年から1920年まで弁護士および検事として活動した。

政治家として[編集]

ヘルブランディーは、1916年4月から1930年1月まで、スネーク市議会議員、1919年7月から1920年8月までフリースラント州議会議員、さらに1920年8月から1930年1月までフリースラントの地方行政委員 (en:Provincial executive)であった。

彼は1920年から1930年にかけて、反革命党 (ARP) 所属のフリースラント州議会議員であった。1939年、党の意向に反して法務大臣に就任した。

第二次世界大戦[編集]

1940年のオランダにおける戦いでドイツ軍が勝利を収めたため、オランダ王室及び戦争を主導していた政治家らはロンドンへ逃れ、亡命政権を建てた。ウィルヘルミナは同年にディルク・ヤン・デ・ヘールを罷免し、ヘルブランディーをオランダ亡命政府首相に任命した。法務大臣と植民地大臣も兼務した。

戦後[編集]

1945年にオランダ南部が解放された後、ヘルブランディーは新内閣を組織したが、全土の解放が果たされると辞任した。彼は政府のインドネシア政策に異を唱えた。1946年から1950年にかけて、「王国の結束を守るための国家委員会」の代表となり、インドネシアの独立に反対した。また、インドネシア共和国からの分離を試みた南モルッカ英語版を擁護した。

ヘルブランディーは1950年に「インドネシア」を出版した。これは17世紀から1948年に至るまでの、オランダとインドネシア及びオランダ領東インドとの関係、歴史について書かれたものである。「オランダ統治下の東インド」「法の支配」「日本の占領」「混沌」の各部においてヘルブランディーの見方が述べられている。[3]

1948年、ヘルブランディーはオランダ議会に戻ったものの、激しい気性のため、他の反革命党メンバーとの関係は良好ではなかった。1956年にはen:Greet Hofmansを巡る事件の調査委員会のメンバーとなった。その3年後に議員を辞した。1961年9月7日、デン・ハーグにて76歳で死去。

私生活[編集]

1911年5月18日に Hendrina Elisabeth Sikkel (1886年2月26日 - 1980年5月4日) と結婚した[4][5][6]

栄典[編集]

Honours
Ribbon bar 勲章 備考
大十字章 of the Order of the Netherlands Lion オランダ 1946年5月6日 Elevated from Knight (28 August 1930)
大十字章 of the Order of Orange-Nassau オランダ 1955年4月5日
大十字章 of the Order of Adolphe of Nassau ルクセンブルク
大十字章 of the 大英帝国勲章 イギリス [7]
Honorific Titles
Ribbon bar 勲章 備考
Minister of State オランダ 1955年4月5日 Style of 閣下

脚注[編集]

  1. ^ (オランダ語) GERBRANDIJ, Pieter (1885–1961)
  2. ^ see www.tresoar.nl, under Familinamen 1811
  3. ^ Gerbrandy, P. S. (Pieter Sjoerds) (1950). Indonesia. Hutchinson, London
  4. ^ Hendrina Elisabeth Sikkel (1886-1980) » Stamboom Kok, Jagt, Bottinga, Maarhuis en Kuiper » Genealogie Online”. www.genealogieonline.nl. 2017年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。
  5. ^ Hendrina Elisabeth Gerbrandy”. Geni. 2018年2月7日閲覧。
  6. ^ Gerbrandy, Pieter Sjoerds”. WW2 Gravestone. 2018年11月30日閲覧。
  7. ^ “Bijzondere onderscheidingen gevonden in archief Gerbrandy” (オランダ語). Omrop Fryslân. (2014年9月8日). https://www.omropfryslan.nl/nieuws/569638-bijzondere-onderscheidingen-gevonden-archief-gerbrandy 2018年2月7日閲覧。 

外部リンク[編集]

Official
公職
先代
Johan de Visser
法務大臣
1939–1942
1945
次代
Jan van Angeren
先代
ゲリット・ジャン・ヴァン・
ハーヴェン・グートハート
次代
Hans Kolfschoten
先代
ディルク・ヤン・デ・ヘール
オランダの首相
1940–1945
次代
ウィム・スヘルメルホルン
先代
Charles Welter
植民地大臣
1941–1942
次代
フベルトゥス・ファン・モーク
先代
ヘンドリック・ファン・ブーイエン
総務大臣
1945
次代
ウィム・スヘルメルホルン