ホス・ウルティア
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名前 | ||||||
本名 |
Josu Urrutia Tellería ホス・ウルティア・テレリア | |||||
ラテン文字 | Josu URRUTIA | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | スペイン | |||||
生年月日 | 1968年4月10日(56歳) | |||||
出身地 | バスク州ビスカヤ県レケイティオ | |||||
身長 | 176cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
ユース | ||||||
1977-1986 | アスレティック・ビルバオ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1984-1990 | ビルバオ・アスレティック | 109 | (13) | |||
1988-2003 | アスレティック・ビルバオ | 348 | (10) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ホス・ウルティア(スペイン語: Josu Urrutia、1968年4月10日 - )は、スペイン・レケイティオ出身の元サッカー選手。ポジションは守備的ミッドフィールダー。
選手としてはアスレティック・ビルバオ一筋であり、プリメーラ・ディビシオン通算348試合、公式戦通算400試合に出場した[1]。2011年から2018年までアスレティック・ビルバオの会長を務めていた。
経歴
[編集]選手時代
[編集]ビスカヤ県・ビルバオに生まれ、アスレティック・ビルバオの下部組織(レサマ)で育った。16歳だった1984年9月9日、UDサラマンカ戦でセグンダ・ディビシオン(2部)のビルバオ・アスレティック(Bチーム)からデビューしたが、プロ契約選手がストライキを行なっていて不在だったことによる[2]。1987-88シーズンにはビルバオ・アスレティックで36試合に出場して4得点したが、チームはセグンダ・ディビシオンB(3部)降格となった。同シーズンにはトップチームデビューを果たし、1988-89シーズンには5試合出場、1989-90シーズンには13試合出場、1990-91シーズンには21試合出場と徐々に出場試合数を増やすと、同シーズンにはトップチームに不可欠な選手となった。タックルと運動量を持ち味とするミッドフィールダーであり、より攻撃的なフレン・ゲレーロを完璧に補完した。
1997-98シーズンには30試合に出場し、2位でUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。2000-01シーズンは21試合出場、2001-02シーズンは19試合出場と、30代になると出場試合数が減少した。34歳となった2002-03シーズンには右膝を繰り返し負傷し、リーグ戦出場なし(公式戦出場はコパ・デル・レイの1試合のみ)に終わった。プリメーラ・ディビシオンでは348試合、公式戦ではちょうど400試合に出場し、2002-03シーズン終了後に現役引退した[3]。現役期間中にはクラブ記録となる9回の退場処分を受けたが、この記録は2011年にフェルナンド・アモレビエタによって更新された[4]。
アスレティック・ビルバオ会長
[編集]2011年にはアスレティック・ビルバオの会長選挙に出馬し、現職のフェルナンド・ガルシア・マクア(弁護士)との一騎討ちとなった。ウルティアは「マルセロ・ビエルサの監督招聘」を公約に掲げ[5]、54.36%の得票を得て会長に選出された[6]。アスレティックの元選手としては4人目の会長となった[7]。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ 300 rugidosEl Mundo Deportivo、2000年3月9日
- ^ 3–1: La juventud se impuso en San Mamés El Mundo Deportivo、1984年9月10日
- ^ Mi trayectoria es más que un título El Mundo Deportivo、2003年6月13日
- ^ A・ビルバオのアモレビエタ、退場回数でクラブ記録を更新WOWOWリーガニュース、2011年11月7日
- ^ ビルバオ会長候補、ビエルサ招へいを公約Goal.com、2011年7月1日
- ^ A・ビルバオ、新会長就任で大変革WOWOWリーガニュース、2011年7月8日
- ^ Josu Urrutia, new presidentアスレティック・ビルバオ公式サイト、2011年7月7日