ボスニア君主一覧
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ボスニア君主一覧では、歴史上のボスニアのバンや中世ボスニア王国の王を列挙する。
初期の支配者 (1082年–1136年)
[編集]画像 | 称号名前 | 家名 | 在位 | 宗主 | 備考 |
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公 スティエパン |
ヴォイスラヴルイェヴィチ家 | fl. 1082年–1101年 |
ドゥクリャ |
ドゥクリャ王コンスタンティン・ボディン (r. 1081年–1101年)の親族で、1082年から1085年のいずれかの時にボスニアの支配者に任じられた[1][2]。 |
バンによるボスニア統治時代 (1136年–1377年)
[編集]→詳細は「バンによるボスニア統治時代」を参照
画像 | 称号名前 | 家名 | 在位 | 宗主 | 備考 | |
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1136年、ハンガリー王ベーラ2世に征服される。1137年から1154年にかけて、ラースロー2世が初めて「ボスニア公」の称号を用いる。 | ||||||
バン ボリチ |
ボリチェヴィチ家 | 1154年–1163年 | ゲーザ2世 (1158年–1162年) イシュトヴァーン4世 (1162年–1163年) ハンガリー王国 |
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1167年、東ローマ帝国に領有主張される[3]。 | ||||||
1180年代、ハンガリー王国に領有主張される。 | ||||||
バン クリン |
クリニッチ家 | 1180年–1204年 | 東ローマ帝国 イムレ (1183年–1204年) ハンガリー王国 |
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バン スティエパン・クリニッチ |
クリニッチ家 | 1204年–1232年 | ||||
バン マテイ・ニノスラヴ |
クリニッチ家 | 1232年–1253年 | ||||
バン プリイェズダ1世 |
コトロマニッチ家 | 1254年–1287年 | ベーラ (マチヴァ公) (1266年–1272年) スティエパン2世グトケレド(1272年–1273年) |
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バン プリイェズダ2世 |
コトロマニッチ家 | 1287年–1290年 | ||||
バン スティエパン1世 |
コトロマニッチ家 | 1287年–1314年 | 1299年、パヴァオ1世シュビッチ・ブリビルスキが「ボスニアの君主」 (Bosniae dominus)を名乗り、弟ムラデン1世シュビッチ・ブリビルスキをボスニアのバンに任じた。ムラデン1世は1299年から1304年にかけてスティエパン1世と抗争した。 | |||
バン パヴァオ1世シュビッチ・ブリビルスキ |
シュビッチ家 | 1305年–1312年 | 1305年に「ボスニアの君主」 (Bosniae dominus)を名乗った。 | |||
バン ムラデン2世シュビッチ・ブリビルスキ |
シュビッチ家 | 1312年–1322年 | パヴァオ1世シュビッチ・ブリビルスキの長男で、1312年から1322年にかけて「ボスニアの君主」を名乗った。1322年にかつての敵だったスティエパン2世コトロマニッチをボスニア王の従属下に置いた。 | |||
バン スティエパン2世コトロマニッチ |
コトロマニッチ家 | 1322年–1353年 | ||||
バン スティエパン・トヴルトコ1世 |
コトロマニッチ家 | 1353年–1366年 | ||||
バン ヴク |
コトロマニッチ家 | 1366年–1367年 | ||||
バン スティエパン・トヴルトコ1世 (復位) |
コトロマニッチ家 | 1367年–1377年 |
ボスニア王 (1377年–1463年)
[編集]すべてのボスニア王は、即位時に自らの名に「スティエパン」を加えた。
名前 | 画像 | 生誕 | 結婚 | 死去 |
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スティエパン・トヴルトコ1世 1377年10月26日 – 1391年3月10日 |
1338年 父:ヴラディスラヴ・コトロマニッチ 母:イェレナ・シュビッチ |
ドロテア イリンツィにて 1374年12月8日 子女なし |
1391年3月10日 53歳 | |
スティエパン・ダビシャ 1391年3月10日 – 1395年9月8日 |
1339年以降 ヴラディスラヴ・コトロマニッチの庶子 |
イェレナ・グルバ 一女 |
1395年9月8日 クラルイェヴァ・ストイェスカ | |
イェレナ・グルバ 1395年9月8日 – 1398年 |
ニコリッチ家 | スティエパン・ダビシャ 一女 |
1399年以降 | |
スティエパン・オストヤ 1398年–1404年 1409年–1418年 |
ヴラディスラヴ・コトロマニッチもしくはスティエパン・トヴルトコ1世の庶子 | (1) ヴィタチャ 子女なし (2) クヤヴァ 一子 (3) イェレナ・ネリプチッチ 子女なし |
1418年3月23日以降 | |
スティエパン・オストイッチ 1418年–1421年 |
父:スティエパン・オストヤ 母:クヤヴァ |
結婚せず | 1421年 | |
スティエパン・トヴルトコ2世 1404年–1409年 1421年 – 1443年11月 |
スティエパン・トヴルトコ1世の庶子 | ドロティ・ガライ 子女なし |
1443年11月 | |
ラディヴォイ・オストイッチ 対立王 1432年–1435年 |
スティエパン・オストヤの庶子 | カタリナ・オド・ヴェリケ 三子 |
1463年6月 | |
スティエパン・トマシュ 1443年 – 1461年7月10日 |
スティエパン・オストヤの庶子 | (1) ヴォヤチャ 一子 (2) カタリナ・コサチャ 2子女 |
1461年7月10日 | |
スティエパン・トマシェヴィチ 1461年7月10日 – 1463年6月5日 |
父:スティエパン・トマシュ 母:ヴォヤチャ |
イェレナ・ブランコヴィチ スメデレヴォ 1459年4月1日 子女なし |
1463年6月5日 斬首 |
名目上の王 | ||
ニコラ・イロツキ | "ボスニア王" (1471年–1477年) | ハンガリー王による任命 |
マティヤ・サバンチッチ・ラディヴォイェヴィチ (コトロマニッチ家) |
"ボスニア王" (1465年–1471年) | ラディヴォイ・オストイッチの子、オスマン帝国スルターンによる任命 |
マティヤ・ヴォイサリッチ (フリャティニッチ家) |
"オスマン・ボスニア王" (1472–1476) | オスマン帝国スルターンによる任命、反逆の廉で廃位 |
脚注
[編集]- ^ Edgar Hösch, The Balkans: a short history from Greek times to the present day, Vol 1972, Part 2, pages 68 and 83. Google Books
- ^ Vjekoslav Kljaic, Geschichte Bosniens von den ltesten Zeiten bis zum Verfalle des K nigreiches, p. 61 (in German)
- ^ Fine's The Late Medieval Balkans, p. 17
参考文献
[編集]- Ćirković, Sima (2004). The Serbs. Malden: Blackwell Publishing
- Curta, Florin (2006). Southeastern Europe in the Middle Ages, 500–1250. Cambridge: Cambridge University Press
- Fine, John Van Antwerp Jr. (1991) [1983]. The Early Medieval Balkans: A Critical Survey from the Sixth to the Late Twelfth Century. Ann Arbor, Michigan: University of Michigan Press
- Fine, John Van Antwerp Jr. (1994) [1987]. The Late Medieval Balkans: A Critical Survey from the Late Twelfth Century to the Ottoman Conquest. Ann Arbor, Michigan: University of Michigan Press