ボーリュー=シュル=ドルドーニュ
Beaulieu-sur-Dordogne | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏 |
県 (département) | コレーズ県 |
郡 (arrondissement) | ブリーヴ=ラ=ガイヤルド郡 |
小郡 (canton) | 小郡庁所在地 |
INSEEコード | 19019 |
郵便番号 | 19120 |
市長(任期) |
ドミニク・カイル (2014年 - 2020年) |
自治体間連合 (fr) | Communauté de communes du Sud Corrézien |
人口動態 | |
人口 |
1223人 (2011年) |
人口密度 | 141人/km2 |
住民の呼称 | Bellocois |
地理 | |
座標 | 北緯44度58分45秒 東経1度50分21秒 / 北緯44.9791666667度 東経1.83916666667度座標: 北緯44度58分45秒 東経1度50分21秒 / 北緯44.9791666667度 東経1.83916666667度 |
標高 |
平均:147m 最低:125m 最高:387m |
面積 | 8.65km2 |
公式サイト | http://mairie.beaulieu-sur-dordogne.fr |
ボーリュー=シュル=ドルドーニュ (Beaulieu-sur-Dordogne、オック語:Bél Luéc)は、フランス、ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏、コレーズ県のコミューン。
地理
[編集]ボーリューはドルドーニュ川に沿って走る県道940号線途上にある。地域圏の最南部にあたる。
歴史
[編集]アキテーヌの首領の座を巡る継承戦争中の855年、ブールジュ大司教ロドルフ・ド・テュレンヌ(ケルシーおよびテュレンヌ領主の子)は、西フランク王シャルル禿頭王支持の王党派を具現化した人物で、自らの一族の土地に修道院の基礎を作らねばならないと考えた。ヴェジェンヌ(Végennes)の地への働きかけが無駄に終わると、彼はVellinusと呼ばれる地を候補地とすることにした。修道院の特許状台帳はその土地のすばらしさを報告したが、ラテン語でBellus Locusと呼ばれた地を修道院は祝別できていなかった。ソリニャック(現オート=ヴィエンヌ県のコミューン)の大修道院から、彼は新しい修道院を設立する担当の修道士の集団を派遣し、修道院の財産形成には彼の親族が広く参加した。修道院は860年に祝別された。
ケルシー伯やテュレンヌ子爵、彼らの非常に多くの家臣たちが敬虔な寄付を行い、修道院の世俗部分は低リムーザンの1/3を占め、言葉は現在のロット県に及んだ。聖プリムと聖フェリシアンの聖遺物を保管し、世俗の欲望から苦しめられはしたが、巡礼の流れを発展させるには十分な成長であった。やがてボーリューは、リモージュからオーリヤック、フィジャック、コンク、モワサック、トゥールーズ、サンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう行程の必須の地となった。1095年以降クリュニー修道院に併合され、改革が行われ、復興の開始と一大事業の時期を経験した。それは修道院の作業場とそこにある装飾された彫刻に残る。
民が崇敬する聖人の庇護の下、肥沃な地方の入り口にある修道院は強大な力を持った。村の定住地の成長のためにこれは必須条件であった。13世紀終わり、修道院建物の周りで生じた村は壁で取り囲まれていた。壁には句読点のように塔が並び、堀が境界となっていた。それは修道院の囲い地であった。郊外が壁の外で生まれた。ドルドーニュ川に向かって広がるラ・グラーヴ地区には、かつて病院があった。中心となる地区は、元のVellinusの村があった場所だった。トルー地区は死者が埋葬された場所だった。ミラベル地区は、かつての修道院の果樹園の近くであった。ボーリューはカステルノーとテュレンヌの領主の欲望をそそり、真のブルジョワ階級が出現した重要な商業地となった。
1213年以降、クリュニーが独占的支配を失い、修道院は次第にその権力を失っていった。ボーリューでは、領主たる修道院長、ブルジョワ階級、そしてテュレンヌ子爵との間で対立が生じた。15世紀、修道院は徐々に崩壊していった。ユグノー戦争中に修道院は新教徒にぼろぼろにされた。16世紀に近づくと、宗教改革の理念はドルドーニュ川の船頭や商人たちの影響を受けて広がっていった。1569年から1574年の間の2度、コリニー提督の軍によって町と修道院は略奪された。修道院付属教会は新教の教会に転換された。リーグ派のおかげで1622年にカトリック信仰が取り戻されると、修道院はベネディクト会派のサン・モール会衆によって再建された。彼らは修道院の規律を復活させた。再び繁栄した町では、豪奢な邸宅が建てられた。かつてのリーグ派は、司教たちの支援を受けて、多くの宗教的友愛会をつくった。フランス革命で修道院建物が壊された時、修道院にはまだ6人の修道士たちがいた。大修道院は損害から逃れ、教区教会となった。
人口統計
[編集]20世紀初頭のボーリューの人口は、2025人であった[1]。
1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2006年 | 2011年 |
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1673 | 1592 | 1560 | 1508 | 1265 | 1286 | 1287 | 1223 |
参照元:1999年までEHESS[2]、2004年以降INSEE[3][4]
経済
[編集]ボーリューを含む一帯はイチゴを年間400トン生産する大生産地である。これは国内のイチゴ総生産量のほぼ1%にあたる。特に、グループ・アンドロが近くのビアール・ブルテヌーの工場でジャムを生産していることが挙げられる。毎年5月の第2日曜日にはイチゴ祭りが行われ、直径8mのタルトに900kgのイチゴが敷き詰められたイチゴ・タルトが作られる[5]。
史跡
[編集]- サン・ピエール修道院付属教会[6] · [7] - 9世紀、ボーリュー領主・テュレンヌ領主の一族であるロドルフによって創設。11世紀にはクリュニー修道院へ併合された。グレゴリウス改革によって拍車がかかり、巡礼が修道院の発展を促し、新たな教会建設が必要になった。1150年には新教会の聖歌隊席と翼廊が既に完成していた。建設事業は13世紀まで続けられた。設計は他の巡礼地のロマネスク様式教会に似て、ラテン十字型である。巡礼者が聖務日課の邪魔をせず回って、自分の好きな聖人ため後陣の礼拝堂で祈りを捧げられるよう、身廊には通路と回廊が備わっていた。
- エストレス城 - ドルドーニュ川より標高が上の、中世の擁壁のため傾斜地にたつ(ボーリューと、川の上流の谷を守るためで、実際にウード王が889年にノルマン人の侵攻を食い止めている)。城は14世紀、15世紀、16世紀の各時代の建物で構成される。城は20世紀直前まで廃墟であったが、現在復元されている。所在地はボーリューではなく、アスタイヤックである。
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修道院外観
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付属教会の入り口
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町並み
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川沿いにたつペニタン礼拝堂
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町並み
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修道院インテリア
ゆかりの人物
[編集]- マルセラン・マルボ - フランス第一帝政期の軍人。百日天下で将軍となった。隣のアルティヤックの生まれ。ボーリューには彼の銅像が建てられている。
- ジャン=アントワーヌ・マルボ - マルセランの父。軍人で、国王警護隊に所属していた。革命後は政治家となる。1800年のジェノヴァ包囲戦(fr)で戦死。
脚注
[編集]- ^ Le Lot partie Chemins de fer p 196 - fr:Armand Viré - Réédition de l'ouvrage de 1907 - ISBN 2-7455-0049-X
- ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=2975
- ^ http://www.statistiques-locales.insee.fr
- ^ http://www.insee.fr
- ^ "La fraise de Beaulieu". Keldelice Information et guide d’achat sur les produits du terroir. 2012年5月16日閲覧。
- ^ Marguerite Vidal, Jean Maury, Jean Porcher - Quercy roman - pp.285-313 - Éditions Zodiaque (collection "la nuit des temps n°10) - La Pierre-qui-Vire - 3e édition - 1979 ISBN 978-2-7369-0143-1
- ^ Jean Maury, Marie-Madeleine S. Gauthier, Jean Porcher - Limousin roman - pp.39-89 - Éditions Zodiaque (collection "la nuit des temps" n°11) - La Pierre-qui-Vire - 1959