ポゴス・マキンツャン

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ポゴス・ムクルトゥイチェヴィチ・マキンツャン
Погос Мкртычевич Макинцян
Պողոս Մկրտչի Մակինցյան
生年月日 (1884-04-20) 1884年4月20日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国エリヴァニ県ロシア語版ナヒチェヴァニ郡ニジニー・アクリスロシア語版
没年月日 (1938-07-18) 1938年7月18日(54歳没)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
出身校 ラザレフ東方言語学院ロシア語版卒業
モスクワ大学歴史・文献学部卒業
前職 作家
所属政党 ボリシェヴィキ
配偶者 エヴゲニヤ・セバル (hy)[1]
子女 アナヒト・マキンツャン (hy)[2]

内務人民委員
在任期間 1921年4月 - 7月

教育人民委員
在任期間 1921年11月14日 - 1922年8月7日

人民委員会議副議長
在任期間 1921年 - 1921年
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ポゴス・ムクルトゥイチェヴィチ(ムクルトチ)・マキンツャンロシア語: Погос Мкртычевич Макинцянアルメニア語: Պողոս Մկրտչի Մակինցյան1884年4月20日 - 1938年7月18日)は、アルメニア人の政治家・作家(自称は歴史家[3])。ロシア語名はパーヴェル・ニキーチチ(二キートヴィチ[1])・マキンツィアン (Павел Никитич (Никитович) Макинциан) とも[3]

生涯[編集]

1884年4月20日にロシア帝国エリヴァニ県ロシア語版ニジニー・アクリスロシア語版で生まれ、1906年ラザレフ東方言語学院ロシア語版(同級生にアレクサンドル・ミャスニコフヴァハン・テリアン、ツォラク・ハンザジャン (hy) らがいた[4])を卒業してモスクワ大学歴史・文献学部 (ru) に進んだ[5]。在学中の1910年から1912年にかけてはテリアン、ホヴァネス・トゥマニアンアヴェティク・イサハキアンアルメニア語版らとともに文芸・芸術年鑑『春』を3号編集し、1912年にモスクワ大学を卒業した[5]1915年7月からはヴャチェスラフ・イヴァノフに招かれて『アルメニア文学選集』の編集に参加し、ヴァレリー・ブリューソフの翻訳や[6]序文の執筆(テリアン、マクシム・ゴーリキーと共著)を担当した[5]。同年にエチミアジンのゲヴォルギアン神学校 (en) に招かれて文学を教え、エレヴァンのガラニアン教区学校でもロシア語を教えた[7]。翌1916年には『ムシャク』(en) 紙に評論の連載を持ち、『アルメニアの詩』アンソロジーにも参加し、ブリューソフやゴーリキーを支援した[7]。『共産党宣言』の最初のアルメニア語訳者の一人にもなり、1917年からボリシェヴィキ党員となった[3]

1918年からモスクワへ戻り、7月1日から翌1919年4月20日までロシア社会主義連邦ソビエト共和国民族問題人民委員部のアルメニア人部門で働いて[3]次官までなった[7]。1919年にはアルメニア語のラテン文字化にも着手したが、これには失敗している[7]。1919年から翌1920年にかけてはチェーカー文芸局局長として『チェーカー・レッドブック』を監修し[3]、ロシア共和国教育人民委員部ロシア語版少数民族部部長も務めた[7]。1920年から翌1921年にはチェーカー少数民族局局長でもあった[7]。1921年3月にはアスカナズ・ムラヴャンとともにアルメニア共和国代表として、トルコとの間に結ばれたカルス条約に署名している[8]。さらに同年4月から7月までアルメニア共和国内務人民委員[9]、11月14日から翌1922年8月7日まで教育人民委員も務めた[10]。1921年には人民委員会議副議長も務め、その後も経済分野で活動[3]。アルメニア共産党中央委員会、アルメニア共和国およびザカフカース連邦共和国の中央執行委員会メンバーにも選出された[3]

その後は外交官として1922年から1925年までイスタンブールで、1927年までミラノパリで活動[7]。文学者としても、1923年から1925年にはテリアン作品集4巻揃を編集し、また『沈鐘』(de, ゲアハルト・ハウプトマン)、『ドン・キホーテ』(ミゲル・デ・セルバンテス)、『ボリス・ゴドゥノフロシア語版』(アレクサンドル・プーシキン)のアルメニア語訳や[3]、『ギコル』(hy, トゥマニアン)、『混沌』(hy, アレクサンドル・シルヴァンザーデ英語版)、『マンクチュエ』(グルゲン・マハリロシア語版)、『ヘグナルの湧水』(hy, ムクルティチ・アルメンアルメニア語版)などのロシア語訳を手がけた[7]ソビエト連邦作家同盟のメンバーにもなった[5]

しかし、連邦科学アカデミー・ザカフカース支部科学部門書記を務めていた1937年に逮捕され[7]、翌1938年7月18日に銃殺された[5]。その後、1955年名誉回復ロシア語版がなされた[5]

脚注[編集]

  1. ^ a b Евгения Себар (Eugenia Sebar, Барсегян) - биография”. Кино-Театр.РУ (2011年5月11日). 2016年9月17日閲覧。
  2. ^ Օհանյան, Լուսինե (2007年1月26日). “ՊԱՏԱՌԻԿՆԵՐ ՄԱԿԻՆՑՅԱՆԻ ԿՅԱՆՔԻՑ”. Առավոտ英語版. http://www.aravot.am/2007/01/26/326138/ 2016年9月17日閲覧。 
  3. ^ a b c d e f g h Архив ВЧК: Сборник документов (3000 экз ed.). М.: Кучково поле. общ. ред., В. Виноградов, А. Литвин, В. Христофоров; сост., В. Виноградов, Н. Перемышленникова. 2007. pp. 689–690. ISBN 978-5-9950-0004-4
  4. ^ Арутюнян А. (2015). "Александр Мясникян и становление Второй Республики" (PDF) (журнал) (1 (34)) (21-й ВЕК ed.). Ер.: НОФ «Нораванк»: 60. {{cite journal}}: Cite journalテンプレートでは|journal=引数は必須です。 (説明)
  5. ^ a b c d e f ՊՈՂՈՍ ՄԱԿԻՆՑՅԱՆ”. AV Production. 2016年9月17日閲覧。
  6. ^ Александрова Э. К. (2016). "К истории создания переводов Вячеслава Иванова из армянской поэзии" (PDF) (журнал) (1 (4)) (Вестник Ереванского университета. Серия «Русская филология» ed.). Ер.: Ереванский государственный университет: 4–5. {{cite journal}}: Cite journalテンプレートでは|journal=引数は必須です。 (説明)
  7. ^ a b c d e f g h i “Ծնվել է գրականագետ, գիտնական Պողոս Մակինցյանը”. Նոյան Տապան. http://nt.am/am/dates/714/ 2016年9月17日閲覧。 
  8. ^ “Армения готовится денонсировать Карсский договор”. Azeri.ru - Азербайджанцы в России. (2008年3月17日). http://azeri.ru/papers/echo-az_info/15400/ 2016年9月17日閲覧。 
  9. ^ ИЗ ИСТОРИИ ПОЛИЦИИ РА: ХРОНИКА”. Полиция Республики Армения. 2016年9月17日閲覧。
  10. ^ Նախարարներ”. Հայաստանի Հանրապետության մշակույթի նախարարությունアルメニア語版 Պաշտոնական կայք. 2016年9月17日閲覧。
公職
先代
イサーク・ドヴラチャン
内務人民委員
1921年4月 - 7月
次代
アヴィス・ヌリジャニャン
先代
アショト・ヨアニシャンロシア語版
教育人民委員
1921年11月14日 - 1922年8月7日
次代
サルキス・アボヴャン