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ポサード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポサードウクライナ語 / ロシア語: Посад [ポサード / パサート]、ベラルーシ語: Пасад [パサード]。)はキエフ・ルーシ期 - 帝政ロシア期に用いられた、城塞(クレムリもしくはデティネツ)の外の市場や商工業者の密集して住まう地区を指す用語である。

名称の変遷

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ポサードという言葉の原義は移住地という意味である[1]。キエフ・ルーシ期には、一般的に都市(城塞で囲まれた内側)は丘の上にあり、城塞外にある居住地はそれより下部に位置していたことから、城塞外の居住地域はポドール(ロシア語: подол。現代ロシア語では、方言で山麓の意[2]。)と呼ばれていた。また商工業者の居住地はリャドクロシア語: Рядок)と呼ばれていた。城塞外の商工業者の居住地域をポサードと呼び始めたのは、12世紀 - 13世紀ウラジーミル大公国での名称・用法が定着したものである。ポサードは1923年 - 1929年の行政改革期にポショーロクпосёлок)と改名された。現在ではパヴロフスキー・ポサードセルギエフ・ポサードなどの自治体名や、都市内の地区の名などに、ポサードの名が残っている。

集落の変遷

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キエフ・ルーシ期

キエフルーシ期のポサード(前節のポドール・リャドクをまとめた、城塞の外にある商工業者の居住地を指す。以下、ポサードの用法は同じ。)には商人・職人が住み、市場があった。市場では陶器・武具・ガラス製品・銅製品・イコン・服・食品・食塩・等が売られていた[3]。大都市のほとんどにはポサードが付随していた。しかし都市が攻撃を受けたときには、攻撃か放火によって完全に破壊されるのが常だった。ポサードの住民は城塞内に逃れるか、もしくは殺されるかであった。これは都市が小規模である場合や、急襲を受けた場合には、城塞の門はすぐさま閉じざるを得なかったためでもある。

帝政ロシア期

パヴロフスキー・ポサードの風景(1900年代)

出典

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  1. ^ 井桁貞義『露和辞典』p786
  2. ^ 井桁貞義『露和辞典』p740
  3. ^ Moss, Walter G. (2005). A History of Russia: To 1917. London: Wimbeldon Publishers. pp. 36–37

参考文献

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  • 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年。

関連項目

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