ポジール
ポジール(ウクライナ語:Поділ;意訳:「麓」)は、ウクライナの首都キーウの歴史的地名。下町(Нижнє місто)、下キーウとも呼ばれる。ドニプロ川の右岸、「上町」が置かれた古キエフ山や城山などの麓に位置している。古キエフの城下地区。13世紀後半から18世紀にかけてキーウの歴史的中枢。19世紀以降、経済・文化的中心の一つ[1]。
歴史
[編集]中世前期
[編集]ポジールは、『ルーシ年代記』の945年の条で初めて言及される[1]。発掘調査によれば、既に9世紀の末に存在したという[1]。13世紀前半にかけてのポジールは、職人や商人などが暮らすキーウの城下地区であった。この地区はボールィチウ坂[2]を通して大公や貴族が住む「上町」(古キエフ)と繋がっていた[1]。12世紀以降のポジールの面積は凡そ200ヘクタールであった。地区は土塁と柵(ストルピエ)によって囲まれて守備されていた。ポジールを流れるドニプロ川の支流ポチャイナ川ではキーウ港が存在した。地区は数町に分かれており、町はいくつかの戸ないし屋敷(平均面積は300~400平方メートル)によって構成されていた。記録によれば、ポジールでは正教会のイッリャ聖堂、プィロホーシュチャ聖堂、トゥーリウ礼拝堂とノーヴホロド礼拝堂があったという。その他に、考古学調査によると、12世紀頃に大理石で造られた5つの聖堂もあったと考えられる[1]。
中世後期・近世
[編集]1240年のモンゴル襲来とキエフ攻城戦以降、キーウの中心地は古キエフ山(上町)からポジール(下の町)へ移った。しかし、外敵による打撃が大きかったため、ポジールの面積が縮小した。17世紀までに北西の境はポチャーイナ川へ流れるフルィボーチツャ川であった[1]。
ポジールの中央では広場(現在の契約広場)と市場が置かれ、それを囲む形で市役所、大聖堂と商店が並んでいた。キーウの市役所は、1494年にリトアニア大公がキーウに自治権を賜った際、木造りの建物として建設された(18世紀に石造りものとして建て替えられた)。大聖堂は石造りの旧プィロホーシュチャ教会で、生神女就寝大聖堂と呼ばれた。ポジール全体はいくつかの小教区に区分され、それぞれの小教区では木造りの聖堂と宿泊施設が存在した。さらに、15世紀には市内の修道院であるフローリウ修道院が建立され、17世紀前半にはイエズス会の学校をモデルにした正教会のキエフ・モヒーラ学院が開かれた[1]。
17世紀半ばまでにポジールではアルメニア人の生神女誕生教会、カトリックのキーウ大聖堂とドミニコ会の修道院附属聖ムィコライ大聖堂があった(後者の聖堂は17世紀末に正教会のペトロ・パウロ修道院の教会となり、1935年にソ連政権によって破壊された)。1741年にはギリシア人の聖カテリナ修道院[3]が建立された[1]。
17世紀の記録によれば、ポジールでは木材の舗装、水道、「サムソン」と呼ばれる噴水があったことがわかる。17世紀以前、一般市民の住宅は木造りであったが、それ以降裕福な商人とギルドは石造りの家を建てるようになった。1760年に商業施設である商客館(ホスティーンヌィイ・ドヴィール)が建設された[4][1]。
近現代
[編集]1811年にポジールは大きな火災に遭い、11世紀から存在した不規則な道路の地取りが失われてしまった。その後、V.ゲステ(ウィリアム・ハスティー)の設計により、ポジールが四角い街区に分けられ、規則正しい道路の配置が敷かれた。1815年から1817年にかけて中央広場で市場を開くために契約館が建設された[5][1]。
19世紀前半にはキーウの中心はポジールからペチェールシクへ移り、さらに後半にはペチェールシクからフレシチャーティクへ移転した。しかし、キーウにとってのポジールは相変わらず重要な地域であり続けた。ポジールではキーウの名門であったキエフ神学学院、多数の繁華街、そしてキーウ港があったからである。さらに、19世紀から20世紀にかけてポジール以北に工業地区が形成された、高級の邸宅が建設されるようになった[1]。
19世紀から20世紀初頭の間に、ポジールは2つの区域に区分されていた。南はポジール自体、北はプローシケという区域であった。2つの区域の間にフルィボーチツャ川が流れ、境目をなしていた。1861年にプローシケではキーウにおける2つの警察署の内の1つが置かれた[1]。
1921年にポジールではポジール区という行政単位が設置された。
ソ連時代におけるポジールは多くの文化財、とりわけ教会建築を失った。新た施設としてドニプロ川のウォーターフロント(1980年代)、新たなキーウ港(1961年)、市場(1980年)が建てられた[1]。
1970年代に、キエフ地下鉄の建設に伴ってポジールでは大規模の発掘調査が行われた。以後、ポジールの全区域は保護区域に指定され、ポジールの南部は特別建築保護区域に指定された[1]。
ウクライナ独立後、ポジールではキエフ・モヒーラ学院の伝統を受け継ぐ「キエフ・モヒーラ・アカデミー国立大学」が復興された。
画像
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プィロホーシュチャ教会
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商客館
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契約館
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モヒーラ大学
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郵便局広場
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n Івакін 2011:295-297.
- ^ 一説では現在のアンドリーイ坂に相当する。
- ^ 現在はカテリナ聖堂;ギリシア正教会所属。
- ^ この商客館は1813年に建て替えられ、1980年に廃止された。現在の商客館は19世紀のものの復元である。
- ^ 1799年から1801年にかけて庇護通りに建てられた最初の契約館はその役割を終えた。
参考文献
[編集]- Сагайдак М.А. Давньокиївський Поділ. – Київ, 1991.
- Івакін Г.Ю. Історичний розвиток Києва XIII – середини XVI ст. – Київ, 1996.
- Климовський С.І. Соціальна топографія Києва XVI – середини XVII ст. – Київ, 2002.
- Попельницька О. Історична топографія Київського Подолу XVII – початку XIX ст. – Київ, 2003.
- Івакін Г.Ю. Поділ // Енциклопедія історії України. — Київ: Наукова думка, 2011. — Т.8. — С.295-297
リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、ポジールに関するカテゴリがあります。