ポンニャ
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ポンニャ | |
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現地語名 | ဦးပုည |
誕生 |
マウン・ポウッシー 1812年 コンバウン朝ビルマ マグウェ地方域マグウェ県チャウク鎮サレー |
死没 |
1867年 コンバウン朝ビルマ・マンダレー |
職業 | 作家、詩人 |
言語 | ビルマ語 |
教育 | バーモ修道学校 |
ウィキポータル 文学 |
ポンニャ(英語: Ponnya、ビルマ語: ဦးပုည、1812年 - 1867年)とは、ビルマの文人である[1]。コンバウン王朝の時代において最も著名な劇作家の1人である[2][3]。優雅な機智と言葉の明快さから、ビルマの最も偉大な作家の一人であると考えられている[4]。敬称である「ウー」を加えたウー・ポンニャ(英語: U Ponnya)[2][5]や、日本では出生地である「サレー」も含めてサレー・ウー・ポンニャ[1]とも呼ばれることもある。幼名はマウン・ポウッシー[1]。
生涯
[編集]ポンニャは1812年に現在マグウェ地方域に属するサレーの町の首長として有名であった一家に生まれ、アマラプラの修道学校で学んだ[6]。
その後、出家と還俗を繰り返しながら宮廷に仕えた[1]。このとき、特に訓話を作る宮廷劇作家として知られていた[2]。また、ポンニャは当時王であったミンドン・ミンに宮廷詩人の一人として仕えた[4]。1850年代にはカナウン・ミンタ王子の教育に加わったことで名声を獲得し、その文才で知られるようになった[6]。
1867年には宮廷内で謀反が発生し、連座として処刑された[1]。
功績
[編集]ポンニャは、主にジャータカを基にした戯曲を生涯で合計7つ執筆した他、詩歌や30作以上にも及ぶ仏教の散文詩、医学や天文学分野における論文も執筆した。また、15世紀のミャンマーの文学ジャンルの一つであったミッターザー(မေတ္တာစာ)を復活させた[5]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e “サレー・ウー・ポンニャとは”. コトバンク. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. 2020年5月12日閲覧。
- ^ a b c “U Pon Nya” (英語). Oxford Reference. The Oxford Encyclopedia of Theatre and Performance. Oxford University Press. 2020年5月12日閲覧。
- ^ Osipov, Yuriy M. (2013). “1”. In David Smyth (英語). Buddhist hagiography in forming the canon in the classical literatures of Indochina. The Canon in Southeast Asian Literature. Routledge. ISBN 9781136816123
- ^ a b Hla Pe; Anna J. Allott; John Okell (2002). V. I. Braginskiĭ. ed (英語). Three 'Immortal' Burmese Songs. Classical Civilisations of South East Asia. Psychology Press. ISBN 9780700714100
- ^ a b “Pon Nya, U” (英語). Great Soviet Encyclopedia (1979年). 2020年5月12日閲覧。
- ^ a b Thant Myint-U (2001) (英語). The Making of Modern Burma. Cambridge University Press. pp. 111–112. ISBN 9780521799140