ポール・ラコンブ
ポール・ラコンブ(Paul Lacombe, 1837年7月11日 - 1927年6月4日)は、フランスの作曲家。
生涯
[編集]ラングドック地方のカルカソンヌの裕福な商人の家に生まれた。パリ音楽院の卒業生のフランソワ・テセール(François Teysseyre, 1821–1887)が1851年にカルカソンヌに開いた音楽学校で声楽、和声、フーガ、対位法を学んだ[1][2][3]。
ラコンブはジョルジュ・ビゼーを崇拝しており、1866年にビゼーに手紙で作曲の助言を求めた。文通は2年の間続き、友情がはぐくまれた[2]。1871年に国民音楽協会が設立されると、ラコンブは創設メンバーに名を連ねた。ビゼーはパリの上流階級にラコンブの音楽を紹介し、パブロ・デ・サラサーテによる『ヴァイオリン・ソナタ』(Op.8)の演奏の実現に尽力した。さらにビゼーはラコンブに管弦楽曲を書くように勧めていたが、1876年に『交響的序曲』(Op.22)が初演されたときは、彼は前年すでに亡くなったため聴くことができなかった[2]。ラコンブの作品はコンセール・コロンヌやコンセール・パドルーで定期的に取り上げられ、1878年には『田園組曲』(Op.31)がエドゥアール・ラロに激賞された。1890年には『春のオーバード』(Op.37)で成功を収めた。
1901年、カミーユ・サン=サーンスの推薦で、芸術アカデミーの会員に選出された。1902年にはレジオンドヌール勲章を受章した[2]。死後の1929年にカルカソンヌ市は彼の名を冠した通りに記念碑を建立した。
同年代の作曲家ポール・ラコームと混同されることが多く、いくつかのラコームの楽譜がラコンブの名で出版された[4]。
作品
[編集]多作家で、管弦楽曲のほかに室内楽曲、ピアノ曲、歌曲があるが、多くは未出版である[3]。生涯を通して、古典的な形式や旋律を保ったが、後期には印象主義的な和声を用いている[5]。ラコンブの作品は仲間の音楽家の間では高く評価されたものの、彼自身がカルカソンヌを離れることを望んでいなかったため、世界的な人気を得ることはなかった[2]。
文献
[編集]- François-Joseph Fétis|Fétis, François-Joseph (1880). Biographie universelle des musiciens et bibliographie générale de la musique, Supplément et Complément, Tome 2. Paris: Firmin-Didot et Cie. p. 58.
脚注
[編集]- ^ Theodore Baker and Alfred Remy, ed. (1919). "Lacombe Paul". Baker's Biographical Dictionary of Musicians (3rd ed.). p. 501.
- ^ a b c d e Andrieu, Martial. Société des Amis de Paul Lacombe: Biographie Retrieved 17 September 2012.
- ^ a b Ferchault, Guy. "Lacombe, Paul". Die Musik in Geschichte und Gegenwart, Barenreiter Kassel – Basel, 1960, pp. 39-40.
- ^ Fauser, Annegret; Everist, Mark, eds (2009). Music, Theater, and Cultural Transfer: Paris, 1830-1914. Chicago: University of Chicago Press. p. 321. ISBN 9780226239286 September 18, 2012閲覧。
- ^ Mathews, William Smythe Babcock (1901). “Symphony Since Beethoven”. Music: A Monthly Magazine Devoted to the Art, Science, Technic and Literature of Music, Volume 19, November 1900 to April 1901. Chicago: Music Magazine Publishing Company. pp. 98–99