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マウリツィオ・ディ・サヴォイア (1593-1657)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
還俗後のオネーリア公マウリツィオ、エスプリ・グランジャン(Esprit Grandjean)画、ラッコニージ城英語版
少年期のマウリツィオ、ヤン・クラーク英語版

マウリツィオ・ディ・サヴォイアMaurizio di Savoia, 1593年1月10日 トリノ - 1657年10月4日 トリノ)は、イタリアの諸侯サヴォイア家の公子、ローマ・カトリック教会の枢機卿。後にオネーリア公爵。

サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世とその妻でスペイン王フェリペ2世の娘であるカタリーナ・ミカエラの間の第6子・四男としてトリノ宮殿英語版に生まれた。

聖職者の道を歩むよう定められ、1607年には13歳で形式的に枢機卿の待遇を与えられ、1621年正式にサンタ・マリーア・デッラ・スカラ教会英語版を名義聖堂とする助祭枢機卿に任命された。シャブレー山塊にあるドルプ修道院フランス語版アボンダンス修道院フランス語版の院長を兼ねた。また、1626年にはローマに文芸学院アカデミア・デイ・デジオージ(Accademia dei Desiosi)を創設した。

1637年に兄の公爵ヴィットーリオ・アメデーオ1世が亡くなると、その未亡人クリスティーヌ・ド・フランスが幼い息子の摂政として実権を握ることに対し、弟のカリニャーノ公トンマーゾと一緒になって反対した。義弟と義姉の対立はピエモンテ内戦英語版に発展するが、1642年に両者は和解した。講和の一環として、1642年マウリツィオは還俗し、オネーリア公爵位及びベルツェツィオ侯爵位を与えられ、同年8月28日にクリスティーヌの長女で実の姪にあたるルイーザ・クリスティーナと結婚した。

総督としてニースの統治を任されていたが、1657年トリノの自邸ヴィラ・デッラ・レジーナ英語版で死去した。妻との間に子がおらず、遺産はすべて妻が継承した。

参考文献

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  • Cozzo, Paolo (2018). "SAVOIA, Maurizio di". Dizionario Biografico degli Italiani, Volume 91: Savoia–Semeria (in Italian). Rome: Istituto dell'Enciclopedia Italiana. ISBN 978-8-81200032-6.